第6話:水という名の美容
私の部屋――1006号室のドアを開ける。
瞬間、澄み切った空気が私たちを包み込んだ。
私の部屋は、空気清浄機二台と、調湿機能付きの壁材によって、常に森林のような空気に保たれている。
ゴミ捨て場の淀んだ空気から移動してきた一ノ瀬は、その落差に眩暈がしたようだった。
「うわ……空気が、違う……」
「土足厳禁よ。あ、スリッパは履かないで」
私は彼が上がり框に足を乗せようとしたのを制止した。
彼の靴下(おそらく三日履きっぱなし)が床に触れるのは許容できない。
「そこにある除菌シートで足の裏を拭いて。それから、このアルコールスプレーで全身を消毒して。髪の毛の一本までよ」
潔癖すぎる指示に、一ノ瀬は恐縮しながら従った。
シュッシュッ、とアルコールを吹きかける姿は、まるで汚染区域から帰還した隊員のようだ。
彼が消毒を終えるのを待たずに、私はキッチンへ向かった。
アイランドキッチンの上に鎮座するのは、ドイツ製の据え置き型高性能浄水器。本体価格三五万円。
レバーを捻ると、音もなくクリスタルのような輝きを放つ「水」が流れ出る。
バカラのグラスに注ぐ。
ただの水ではない。
塩素、トリハロメタン、鉛、農薬……あらゆる不純物を〇・〇〇〇一ミクロンレベルで除去し、さらにサンゴフィルターを通してミネラルバランスを整えた「生きた水」だ。
「……飲みなさい」
リビングに入ってきた一ノ瀬に、グラスを突きつけた。
彼は震える手でそれを受け取った。
「い、いただきます……」
彼はグラスに口をつけ、一気に煽った。
ゴク、ゴク、ゴク。
静かな部屋に、喉が鳴る音が響く。
彼の喉仏が大きく上下し、ひび割れた唇が濡れていく。
「……っはぁ!」
グラスを空にした一ノ瀬が、深く、長い息を吐いた。
そして、信じられないものを見るような目で、空のグラスを見つめた。
「……甘い」
「砂糖なんて入ってないわよ」
「いえ、味じゃなくて……感覚が、甘いんです。水って、こんなにするっと入ってくるもんでしたっけ? 喉に引っかからないっていうか……」
「それが『クラスター(分子集団)』の小さい水よ」
私は勝ち誇った気分で腕を組んだ。
味覚が死んでいる彼でも、本物は分かるらしい。
「普通の水道水やペットボトルの水は、分子が大きくて細胞膜を通りにくいの。でも、この水は細胞のドアをすり抜けて、ダイレクトに浸透する。今、あなたの干からびた六〇兆個の細胞が、歓喜の声を上げているのがわかるでしょう?」
「細胞が……喜ぶ……」
一ノ瀬は呆然と呟き、自分の掌を見つめた。
気のせいではない。
たった一杯の水で、彼の顔色に変化が現れていた。
ドロドロだった血液に水分が供給され、毛細血管の先まで流れ始めたのだ。土気色だった頬に、うっすらと人間らしい赤みが差している。
即効性がある。
やはり、若い男性の基礎代謝は侮れない。三十路とはいえ、腐っても男だ。
適切なリソースさえ投下すれば、私の肌よりも遥かに早いスピードで再生する可能性がある。
(……面白い)
私の研究者魂が、ゾクゾクと疼いた。
自分で自分を実験するのは限界がある。遺伝子も生活習慣も、すでに最適化されすぎているからだ。
だが、この「マイナスからのスタート」である彼なら。
劇的なビフォーアフターという、最高のエビデンスが取れるはずだ。
私はソファに座り、まだ立ったままの彼を見上げた。
獲物を狙う豹のような目つきをしていたかもしれない。
「一ノ瀬さん。もう一杯、飲む?」
彼はコクコクと首を縦に振った。
まるで、餌を待つ捨て犬のように。




