第55話:初めての胎動
妊娠一八週目。
地獄のつわり期間が明け、世界が色を取り戻した頃。
私はリビングのソファで、難しい顔をして自分のお腹を凝視していた。
「……解せぬ」
「どうしたの? お腹痛い?」
蓮が心配そうにハーブティー(ノンカフェイン)を差し出す。
私は首を横に振った。
「さっきから、下腹部で奇妙な振動を感知するの。ポコッというか、ニョロというか……まるで腸内でガスが発生して、ポアソン分布に従って移動しているような……」
私は真剣に分析した。
昨日の夕食は根菜の煮物(食物繊維豊富)。腸内細菌が活発化してガスが出ている可能性は高い。
「……それ、胎動じゃない?」
蓮が目を輝かせて、私の隣に座った。
「まさか。まだ五ヶ月よ? 胎児の筋力なんてたかが知れてるわ。子宮壁を蹴って母体に振動を伝えるには、物理演算的にまだ早すぎ……」
ポコッ。
今度は、明確な衝撃があった。
ガスの移動ではない。内側から、小さな拳(あるいは足)でノックされたような感触。
「あっ……!」
「動いた! 今、動いたよね!?」
蓮が私の服の上から、そっとお腹に手を当てた。
大きな温かい手。
すると、呼応するように、もう一度。
ポコッ。
「……うわぁ……」
蓮の目から、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。
彼は私の膨らみ始めたお腹に顔を寄せ、震える声で話しかけた。
「はじめまして。パパだよ。聞こえるかな? 君が動いてくれて、パパは今、世界で一番幸せだよ」
その姿を見て、私の「分析脳」が停止した。
ガスじゃない。
ここに、いるんだ。
私と蓮の遺伝子を受け継ぐ、小さな生命体が。
今まで「体調不良の原因」「栄養を奪う寄生生物」とすら感じてしまっていた存在が、急に愛おしい「家族」へと変わった瞬間だった。
「……蓮、泣きすぎよ」
「だって……嬉しいんだもん」
私は夫の頭を撫でながら、自分のお腹にもう片方の手を重ねた。
この子が生まれてくる世界を、最高のものにしなければ。
母としてのスイッチが、パチンと入る音がした。




