第54話:キャリアと母体の天秤
妊娠一〇週目。
つわりはピークを迎えていたが、仕事は待ってくれない。
今日は大事なクライアントへのプレゼンの日だ。
私はマタニティマークをバッグの内側に隠し、少し緩めのパンツスーツを着て出社した。
まだ会社には報告していない。
「妊婦だから」と配慮されるのも、プロジェクトから外されるのも怖かったからだ。
「九条さん、顔色悪くないですか?」
「いえ、ちょっと貧血気味なだけで。大丈夫よ」
後輩の心配を笑顔でかわし、会議室へ向かう。
プロとして、体調管理は基本中の基本。ここ一番で穴を開けるなんてありえない。
プレゼンが始まる。
順調だった。資料は完璧だ。
しかし、中盤に差し掛かった時。
クライアントの男性が、ポケットからハンカチを取り出した。
ふわっ。
漂ってきたのは、強烈な柔軟剤の香り。
人工的なフローラルの香りが、私の鼻腔を直撃し、脳の嘔吐中枢を蹴り上げた。
(……っ、ダメ)
視界が揺れる。
脂汗が噴き出す。
言葉が出てこない。
胃の中のものが逆流しそうになるのを、必死で喉の奥で食い止める。
「……九条さん?」
会場がざわつく。
私は口元を押さえ、膝から崩れ落ちそうになった。
――その時。
会議室のドアが開き、一人の男が入ってきた。
「失礼します。資料の追加データをお持ちしました」
一ノ瀬蓮だ。
なぜ彼がここに? 彼は別の会社のはずだ。
いや、今日は合同プロジェクトの定例だったか。
彼は倒れそうになる私を、ごく自然な動作で支えた。
「九条ディレクター、少し休憩を挟みましょう。続きは私が説明します」
彼は私を椅子に座らせ、クライアントに向き直った。
その背中は広く、堂々としていた。
「申し訳ありません。彼女は現在、非常に重要な『育成プロジェクト』を並行して進めておりまして、少々体調が不安定なのです」
育成プロジェクト?
クライアントが首を傾げる中、蓮はニッコリと笑って続けた。
「次世代の、最強の遺伝子を育てるというプロジェクトです。……ですので、ここからはパートナーである私が引き継ぎます」
その言葉の意味を理解した瞬間、クライアントの顔が驚きから祝福へと変わった。
私は椅子の背もたれに身を預け、流れるようにプレゼンを代行する夫の姿を見つめた。
私のプライド? キャリアへの執着?
そんなものは、この頼もしい背中の前では些細なことだった。
彼はもう、私が守るべき「ひ弱な社畜」ではない。
私と、私のお腹の中にいる命を守ってくれる、最強の盾だ。
(続く)




