第53話:匂いという暴力
ポテト騒動から一週間。
新たな敵が現れた。それは、日本人の主食であり、私たちの健康の源である「米」だ。
夕方。
蓮が夕食の準備を始めた時だった。
炊飯器から蒸気が上がり始める。
甘い、穀物の香り。
かつては「幸せの匂い」だったそれが、今の私には「蒸れた雑巾の匂い」に変換されて脳に届いた。
「!!」
私は口を押さえ、寝室に避難してドアを目張りした。
いわゆる「炊き立てご飯の匂い」がダメになるタイプだ。
「美玲!?」
「ご飯……! ご飯の匂いが無理……!」
ドア越しに叫ぶ。
キッチンでは、蓮が途方に暮れていたはずだ。
彼は私のために「お米マイスター」の資格まで取り、最高の土鍋で玄米を炊くことに情熱を注いでいたのだから。
数分後。
蓮が寝室に入ってきた。身体から匂いを消すために着替えて、消臭スプレーまでかけて。
「ごめん。配慮が足りなかった」
「ううん、蓮は悪くない……私が、おかしいの……」
ベッドの中で丸まりながら、私は謝った。
栄養管理士として、夫にまともな食事も作れず、作ってもらった食事の匂いすら拒絶する。妻失格だ。
「……美玲」
蓮がベッドサイドに座る。
「僕たちの契約、覚えてる?」
「契約……?」
「『期間は一生。報酬は僕のすべて』」
彼は私の乱れた髪を優しく撫でた。
「今は、僕が君を管理する番だ(ターンオーバー)。君の腸内環境も、栄養バランスも、今は忘れていい。僕が全部計算して、君が食べられるタイミングで、食べられるものだけを用意する」
彼はキッチンの方を指差した。
「当分の間、家での炊飯は禁止にする。僕はパックご飯をベランダで食べるか、外で済ませてくるよ」
「そんな……蓮の食事が……」
「僕の身体はもう完成されてるからね。少しくらい乱れてもびくともしないよ」
彼は力こぶを作ってみせた。
その頼もしさに、私は胸が詰まった。
かつて、私が彼からジャンクフードを取り上げた時、彼は文句も言わずに従った。
今、彼は私から「健康的な食事」を取り上げられたのに、文句ひとつ言わず、私の生存を最優先にしてくれている。
ああ、これが「パートナー」か。
私は彼に育ててもらったのかもしれない。人を許し、受け入れるという心を。




