第52話:マックのポテトを渇望する
妊娠六週目。地獄の釜の蓋が開いた。
つわり(悪阻)である。
私の身体は、私が積み上げてきたすべての理論を拒絶し始めた。
まず、大好きだったオーガニック野菜の「青臭さ」がダメになった。
次に、出汁の香り。かつて一ノ瀬を救ったあの芳醇な香りが、今では吐き気を催す催涙ガスにしか感じられない。
「……気持ち悪い」
ソファーに横たわり、私は天井を見つめる。
胃の中では常に荒波が渦巻き、船酔いのような状態が二四時間続いている。
プロゲステロン(黄体ホルモン)が急激に増加し、消化管の動きを抑制しているせいだ。理屈はわかっている。だが、理屈で吐き気は止まらない。
何も食べられない。
水さえも、独特のカルキ臭(浄水器を通しているのに!)を感じて受け付けない。
――その時だった。
テレビのCMから、軽快な音と共に「赤いパッケージのフライドポテト」が映し出された。
ドクン。
心臓が跳ねた。
成分分析:
遺伝子組み換えジャガイモ、ショートニング(トランス脂肪酸)、精製塩(塩化ナトリウム)。
私の脳内データベースは「危険物」と警告している。
しかし、私の本能は、獣のように叫んでいた。
**『よこせ。あの塩と油の塊を、今すぐよこせ』**と。
「……蓮」
「うん? 何か欲しい? リンゴ擦ろうか?」
在宅ワーク中の蓮が、飛んできてくれる。
私は震える声で、屈辱的なオーダーを口にした。
「……ポテト。……マックの、ポテトが食べたい」
「えっ?」
蓮が耳を疑うような顔をした。当然だ。
私はかつて、彼が食べようとしたそれを「産業廃棄物」と呼んでゴミ箱にシュートした女だ。
「……ごめんなさい。わかってるの。あんな酸化した油、胎児に良いわけがない。添加物の塊よ。でも……あれしか、食べられる気がしないの……」
涙が出てきた。
自己嫌悪で押しつぶされそうだ。
自分の信念を曲げ、愛する子供に毒を与えるような罪悪感。
蓮は私の手を握り、力強く言った。
「わかった。今すぐ買ってくる」
「で、でも……」
「美玲。今の君に必要なのは『正しさ』じゃない。『カロリー』だ」
彼はジャケットをひっつかみ、玄関へ走った。
「ジャンクだろうが毒だろうが、美玲が食べられるなら、それは今の君にとっての『完全栄養食』だ。僕が責任を持って買ってくる!」
一五分後。
部屋に充満するジャンクな油の匂い。
普段なら発狂するその匂いを、私は貪るように吸い込んだ。
しなしなになったポテトを口に放り込む。
強烈な塩気と、人工的な旨味。
……美味しい。涙が出るほど、美味しい。
「……うっ、うう……おいしい……」
「よかった……食べてくれて、本当によかった」
泣きながらポテトを食べる私を、蓮は安堵の表情で見守っていた。
その目には、軽蔑の色など微塵もない。
彼は知っていたのだ。完璧な私が崩れ落ちる姿を見ても、それでも私を愛することを。




