第51話:完璧な朝の、異質な吐き気
第2部:最強の遺伝子育成論
結婚から三年。
私たちの朝は、相変わらず「完璧」なルーティンで始まっていた。
カーテンの隙間から差し込む朝日。
室温二四度、湿度五五%に保たれた寝室。
キッチンからは、夫・蓮が淹れるハーブティーの香りが漂ってくる。
「美玲、おはよう。今日の白湯、温度五〇度にしておいたよ」
「ありがとう、蓮」
私はベッドから起き上がり、差し出されたマグカップを受け取る。
三六歳になった蓮は、マネージャー職に就いてから貫禄が増した。
眉間のシワさえも知性に見えるし、毎朝の筋トレで維持された逆三角形の背中は、何度見ても惚れ惚れする。
まさに、私が手塩にかけて育てた「最高傑作」だ。
私も、自分の身体には自信があった。
腸活と適切なエクササイズのおかげで、体内年齢は二〇代前半をキープしている。生理周期も月の満ち欠けのように正確だ。
私の人生に、「想定外」なんてありえない。
――はずだった。
「今日の朝食は、アジの干物と、大根おろし。あと納豆にはアマニ油を入れておいたよ」
蓮が笑顔で配膳してくれる。
いつもなら「最高ね」と言って箸を伸ばす場面だ。
香ばしい魚の焼けた匂い。発酵した納豆の匂い。
それらが鼻腔をくすぐった、その瞬間。
「……うっ」
強烈な不快感が、胃の底からせり上がってきた。
それは、ただの胸焼けではない。
内臓が裏返るような、拒絶のサイン。
「美玲? どうしたの?」
「……ごめん、ちょっと」
私は口元を押さえ、洗面所へと駆け込んだ。
胃の中は空っぽなのに、嗚咽が止まらない。
冷や汗が背中を伝う。
(……何? 食中毒? 昨日の夜、何か変なもの食べた?)
(いいえ、ありえない。食材はすべて私が厳選したオーガニックよ)
(じゃあ、ウイルスの感染? 免疫力は完璧なはずなのに)
洗面台の鏡に映る自分の顔を見る。
青ざめ、目の下にクマができている。
「美」を何より優先してきた私が、こんなに醜い顔をしているなんて。
「美玲! 大丈夫か!?」
蓮が背中をさすってくれる。その温かい手が、今はなぜか少し鬱陶しく感じる。
匂いに敏感になっているせいか、彼のつけている天然由来のコロンさえも、鼻につく。
「……あっち行って。匂いが……」
「え?」
「ごめん、一人にして……」
私は彼を突き放し、トイレに鍵をかけた。
混乱する頭の中で、一つの可能性が点滅していた。
生理が、三日遅れている。
あの正確無比な私の生理が。
(まさか……)
私は震える手で、棚の奥に隠しておいたストックを取り出した。
妊娠検査薬。
使う日が来るとは思っていなかった。私たちは互いに仕事を優先し、「子供は自然に任せる」というスタンスだったから。
数分後。
小さな窓に浮かび上がった、鮮明な「陽性」のライン。
私は便座に座り込んだまま、天井を見上げた。
歓喜? いいえ。
最初に押し寄せた感情は、圧倒的な「恐怖」だった。
これから一〇ヶ月。
私の身体は、私のものではなくなる。
ホルモンという名の暴君に支配され、体型は崩れ、キャリアは中断される。
「完璧な管理者」であった私が、初めて「管理不能」な領域に足を踏み入れるのだ。
「……どうしよう、蓮」
ドアの向こうで、心配そうに私の名前を呼ぶ夫の声が聞こえる。
その声を聞いた瞬間、恐怖の中に、一粒だけの涙のような温かい感情が混じった。
最強の遺伝子。
私たちが作り上げたこの健康な肉体の掛け合わせ。
その結晶が、今、ここにいる。
私は深呼吸をして、鍵を開けた。
ここからが、新しい戦い(プロジェクト)の始まりだ。
(続く)




