第5話:悪魔のささやき
「鍵、忘れたんでしょう?」
私は深呼吸をして、努めて冷静な声を作った。
だが、鼻息は荒かったかもしれない。
「は、はい。オートロックで締め出されて……管理会社もこの時間じゃ繋がらなくて……」
「朝までここで寝るつもり?」
「まあ、部屋の前で座って待とうかと……凍え死にはしないと思いますし」
「死ぬわよ」
私は断言した。
「今のあなたの栄養状態は飢餓レベルよ。体温調節機能が壊れてる。ここで寝たら、低体温症で免疫力が低下して、そこら辺の雑菌に感染して一発アウト。来週のデスマーチには参加できないわね」
一ノ瀬の顔色が、さらに青ざめた。
デスマーチに参加できないことが怖いのか、死ぬのが怖いのかは分からないが、効果はあったようだ。
「じゃ、じゃあ、どうすれば……」
「ついて来なさい」
私は踵を返した。
シルクのガウンを翻し、出口へと向かう。
「えっ」
「私の部屋に来なさい。管理会社が開くまで、保護してあげる」
一ノ瀬は口をパクパクさせていた。
当然の反応だ。
ほとんど会話もしたことのない隣人の女性から、いきなり部屋に誘われているのだ。美人局か、新手の壺売りを疑うのが正常な知能というものだ。
「い、いや、でも! 僕みたいなのが、そんな……女性の部屋なんて、まずいですし……それに、汚しますから……」
彼は自分の薄汚れたスウェットと、便所サンダルを見て首を振った。
彼なりに、最後の理性を保とうとしているらしい。
確かに、私の聖域に、このバイオハザードを持ち込まれるのは生理的に不愉快だ。できれば防護服を着せたいくらいだ。
だが、この原石をこのまま見殺しにすることのほうが、今の私には耐え難いストレスであり、機会損失だった。
私は振り返り、営業用の――いや、マッドサイエンティストのような笑みを浮かべた。
「勘違いしないで。変な意味じゃないわ」
「え……?」
「私は証明したいの。適切な『腸活』と『栄養管理』があれば、人間はここまで変われるということを。あなたは私の実験台として最適な検体なのよ」
「じ、実験台……?」
一ノ瀬はポカンとしている。
思考処理が追いついていないようだ。糖分不足の脳では無理もない。
私は畳み掛けるように、彼が今一番欲している言葉を投げかけた。
「……水が、飲みたいんでしょう?」
その一言が決定打だった。
彼はビクリと反応し、渇ききってひび割れた唇を舐めた。
カフェインとアルコールで脱水状態の身体が、悲鳴を上げているのが聞こえるようだった。
「……み、水……」
「うちには、最高級の浄水器があるわ。コンビニの水なんて目じゃない、細胞が喜ぶ水よ」
それは、悪魔のささやきだった。
あるいは、砂漠の旅人にオアシスをチラつかせるようなものだ。
彼はふらふらと立ち上がり、吸い寄せられるように私についてきた。




