第40話:所有権の主張
「い、一ノ瀬! 起きろ! すごい美人が来てるぞ!」
同僚に揺すられ、一ノ瀬がのっそりと顔を上げた。
焦点の合わない目が、私を捉える。
「……く、九条……さん? 幻覚……?」
「幻覚じゃないわ。メンテナンスに来たの」
私は彼のデスクの横に立ち、保温ジャーの蓋を開けた。
高麗人参と鶏出汁の、濃厚でスパイシーな香りがフロア中に広がる。
カップ麺の安っぽい匂いが、一瞬で駆逐された。
「飲みなさい。参鶏湯よ。疲労回復と免疫力アップの特効薬」
「あ……あぁ……」
一ノ瀬は震える手でスプーンを受け取り、スープを口にした。
その瞬間、彼の目に光が戻った。
「……っ、うまい……! 身体が、熱くなる……」
そこへ、追いついてきた高橋さんが叫んだ。
「ちょっと! 勝手に入ってこないでください! 部外者は退去してください!」
「うるさいわね」
私は振り返り、高橋さんを睨みつけた。
そして、一ノ瀬のデスクに置かれていた「食べかけの激辛カップ麺」と「エナジードリンク」を指差した。
「あなたが彼に与えているのは、ただの覚醒剤代わりの『毒』よ。一時的に興奮させて、その後ボロ雑巾のように使い捨てる気?」
「なっ……みんな食べてるもん! 何が悪いのよ!」
「私は彼を一ヶ月かけて、最高の状態に仕上げたの。その資産を、あなたのエゴと無知で棄損するのは許さない」
私は一ノ瀬の肩を抱き寄せた。
彼は驚いて私を見上げる。
「彼は私の管理下にあるの。彼に触れていいのは、彼を正しくケアできる人間だけよ」
フロアがどよめいた。
これは事実上の「所有権宣言」だ。
高橋さんは顔を真っ赤にして、言葉を詰まらせた。
論理と、健康への執念と、そして何より「顔面の偏差値」において、勝負はついていた。
「……一ノ瀬さん」
私は彼の耳元で囁いた。
「これを飲んだら、あと三時間で仕事を終わらせなさい。脳の血流は私が保証するわ。……終わったら、一緒に帰りましょう」
一ノ瀬の顔が、一気に引き締まった。
テストステロンと、愛のスープが全身を駆け巡る。
「……はい! やります! すぐ終わらせます!」
彼は猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。
その背中からは、先ほどまでの死の気配は消え、鬼神のようなオーラが立ち上っていた。
私は腕組みをして、その様子を見守った。
周りの社員たちが、私を拝むように見ている。
高橋さんは、悔しそうにヒールを鳴らして去っていった。
勝った。
私は心の中でガッツポーズをした。
でも、一番の勝利は……彼が「一緒に帰ろう」と言った時に見せた、あの子犬のような嬉しそうな顔だったかもしれない。
(第4章・完)




