第4話:泥に埋もれたSSR
私が足を止めたのは、同情からではない。
純粋な、学術的興味と――ある種の「憤り」からだった。
一ノ瀬がよろめき、前髪が乱れた瞬間。
蛍光灯の白い光が、彼の横顔を切り取った。
「……嘘でしょ?」
私は無意識に、彼との距離を詰めていた。
汚い、臭い、関わりたくない。そんな感情は、私の「美への探究心」の前では無力だった。
私の目は、化粧品の成分表の極小文字を読み取り、マイクロスコープなしで肌のキメ(皮溝と皮丘)の状態を把握するために鍛え上げられている。
その「分析眼」が、彼の顔の造作(土台)を捉えて離さなかった。
まず、鼻筋だ。
眉間から鼻先にかけてのラインが、定規で引いたように真っ直ぐで、かつ先端がわずかにツンと上を向いている。
これは、ヒアルロン酸注入やプロテーゼの手術では決して出せない、天然の「忘れ鼻」の形状だ。主張しすぎないのに、顔の中心に品格を与えている。
次に、顎のライン(フェイスライン)。
今は浮腫みでパンパンに腫れ上がり、だらしない肉に埋もれているが、骨格そのものは鋭角でシャープだ。
私は脳内で、彼の浮腫みを画像加工ソフトのように除去してみる。
……現れたのは、完璧なEライン(横顔の美しさの基準)を持つ、彫刻のような輪郭だった。
そして極めつけは、睫毛だ。
伏せられた目元に落ちる影が、異常に長い。
マスカラもビューラーもしていない男の睫毛が、ここまで密で、長く、上向きにカールしているなんて。
(……SSRだ)
私はゴクリと喉を鳴らした。
間違いない。
この男、外装はボロボロのNカードだが、中身のステータスは、私が先月三万円課金しても出なかった、期間限定イベントのSSRキャラより高いポテンシャルを秘めている。
――もったいない!
強烈な、マグマのような感情が私の胸を貫いた。
それは、荒れ果てた一等地の更地を見た不動産王の気持ちに近いかもしれない。
あるいは、国宝級の名画が、湿気の多い倉庫でカビだらけになっているのを発見した美術館長の怒りか。
これほどの素材を持ちながら、この男は劣悪な運用で、その価値をドブに捨てている。
宝の持ち腐れ、などという生ぬるい言葉では表現できない。
これは損失だ。人類の遺伝子資産に対する、重大な背任行為だ!
許せない。
美容研究家として、この「原石」がただの石ころとして腐っていくのを、指をくわえて見ているなんて。
気づけば私は、ゴミ袋を放り投げ、彼の胸倉を掴んでいた。
「……えっ、あ、く、九条さん……?」
一ノ瀬が白目を剥きかける。
私は鬼の形相で、彼の至近距離に迫った。
「あなた、自分の顔を鏡で見たことあるの?」
「えっ、か、顔……? 髭剃る時くらいは……」
「その時、何も思わないの? この素晴らしい骨格が泣いているのが聞こえないの!?」
「こ、骨格……?」
一ノ瀬は完全に怯えていた。
無理もない。深夜二時のゴミ捨て場で、隣人の美女(自称)がいきなり骨格について説教を始めたのだから。通報されても文句は言えない。
だが、今の私にブレーキは存在しなかった。




