第32話:白い粉の誘惑(手作りクッキー)
オフィスにて。
一ノ瀬蓮は、最大の危機に直面していた。
時刻は一五時。魔のおやつの時間。
総務部の高橋さんが、ピンク色のラッピング袋を持ってデスクに現れたのだ。
「一ノ瀬さん、お疲れ様です♡」
「あ、高橋さん。お疲れ様です」
「これ、昨日家で焼いたんです。クッキー。よかったら食べてください!」
周囲の男性社員から「うおおおマジか!」「手作り!?」という嫉妬の声が上がる。
以前の僕なら、女神からの施しとして涙を流して拝領していただろう。
だが、今の僕の脳内には、九条美玲という美しき検閲官が住んでいる。
――『分析眼』発動。
目の前の可愛らしいクッキーを見る。
九条さんの教えが脳内で再生される。
成分推測:
小麦粉……腸壁を荒らす炎症の元。
白砂糖……血糖値スパイクを引き起こし、細胞を糖化させる老化物質。
マーガリン(トランス脂肪酸)……プラスチックごみ同然の油。細胞膜を硬くする。
(……毒だ)
僕の生存本能が警報を鳴らした。
今のクリーンな身体にこれを入れれば、間違いなく肌荒れか、ダルさを引き起こす。
しかし、笑顔で差し出された好意を無下にするわけにはいかない。
「……あ、ありがとうございます。すごく美味しそうです」
「今食べてみてくれませんか? 感想聞きたくて」
高橋さんが期待の眼差しで見つめてくる。
逃げ場がない。
「小麦アレルギーで」と嘘をつくか? いや、先週のランチでパスタを食べているところを目撃されている。
「すみません、今、トレーナーの指導で『糖質制限』をしていて……」
「えー? 一ノ瀬さん十分細いじゃないですかぁ。一個くらい大丈夫ですよぉ」
じりじりと詰め寄られる。
甘い匂いが鼻をくすぐる。
その時、救世主が現れた。
「一ノ瀬、ちょっといいか?」
上司が手招きしている。
僕は弾かれたように立ち上がった。
「す、すみません! 呼ばれたので! クッキーは後でいただきます!」
僕はクッキーの袋をひったくり、逃げるように席を立った。
背後で、高橋さんがむうっと頬を膨らませている気配を感じながら。
……危なかった。
しかし、手元には「毒」が残った。
捨てれば天罰が下る。かといって食べられない。
僕はそれを、そっとカバンの奥底に封印した。




