第26話:オフィスのどよめき
一ノ瀬蓮、三〇歳。
システムエンジニア。社内でのあだ名は「幽霊」または「ゾンビ」。
存在感が薄く、いつも疲れた顔でPCに向かっているだけの男。
それが、今日までの僕の評価だった。
午前八時五〇分。
僕はオフィスの自動ドアを通り抜けた。
コツ、コツ、と革靴の乾いた音がフロアに響く。
姿勢を正し、前を見据えて歩く。
九条さんに言われた通り、丹田(お腹の下)に力を入れて。
最初に異変に気づいたのは、受付の女性だった。
いつもなら「おはようございます」と機械的に言うだけの彼女が、僕を見た瞬間、目を見開き、言葉を詰まらせた。
「お……あ、おはようございま……す……えっ?」
僕は軽く会釈をして通り過ぎる。
フロアに入る。
始業前のざわめき。コーヒーを飲む者、PCを立ち上げる者。
僕が自分の席に向かって歩き出すと、その空気が波紋のように変わっていった。
すれ違う社員たちが、二度見する。
会話が止まる。
視線が突き刺さる。
「……誰? 新しい営業の人?」
「いや、あれ……一ノ瀬さんじゃない?」
「嘘でしょ!? あの一ノ瀬さん?」
「え、待って、めっちゃカッコよくない……?」
ひそひそ話が聞こえてくる。
以前なら、その視線に怯えて背を丸めていただろう。
でも今は違う。
この身体には、最高品質の栄養と、十分な睡眠と、そして九条さんから貰った自信が詰まっている。
テストステロンが、僕の背中を押し続けている。
自席に着き、ジャケットを脱いでベスト姿になる。
隣の席の先輩(いつも仕事を押し付けてくる人)が、口をぽかんと開けて僕を見ていた。
「お、おはようございます……一ノ瀬、お前……なんか、整形でもしたか?」
「いいえ。ただの『生活改善』ですよ」
僕は爽やかに微笑み、PCを起動した。
画面に反射する自分の顔を見る。
そこには、疲れ切った社畜の姿はない。
戦う準備のできた、一人の男の顔があった。
――九条さん。僕、やれそうです。
心の中で、僕の「管理者」に感謝を捧げ、キーボードに手を置いた。
その日、社内のチャットツールでは「開発部の一ノ瀬がイケメン化している件について」というスレッドが立ち、ちょっとした祭りになっていたことを、僕はまだ知らない。




