第12話:黄金の聖水(EAA)と三つの戒律
私はキッチンの水道を無視し、持参した二リットルのペットボトルを開封した。
自宅の高性能浄水器から汲んできた、クリスタルウォーターだ。
シェイカーに水を三〇〇ミリリットル注ぐ。
水道水に含まれる塩素は、せっかくの栄養素を破壊し、腸内細菌を殺してしまう。水へのこだわりは、美容へのこだわりそのものだ。
そこに、ボトルに入った黄金色の粉末――**EAA(必須アミノ酸)**を、付属のスプーン一杯分投入する。
「見てて」
私は手首のスナップを利かせてシェイクした。
チャプチャプと小気味よい音が響く。
粉末は瞬時に溶け、鮮やかなレモンイエローの液体が出来上がった。
「はい、飲んで」
差し出されたシェイカーを、一ノ瀬はおっかなびっくり受け取った。
鼻を近づけ、クンクンと匂いを嗅ぐ。
「……怪しくないですか? なんかすごい色してますけど」
「市販のエナドリよりよっぽど安全よ。これはグレープフルーツ味。黄色いのはビタミンB群の色だから心配しないで」
「……いただきます」
彼は意を決して、黄金の液体を煽った。
ゴク、ゴク、ゴク。
喉仏が上下する。乾いた砂漠に雨が染み込むように、液体が彼の身体へ吸い込まれていく。
「っぷはぁ……!」
一ノ瀬が空になったシェイカーを置いた。
その表情に、驚きの色が浮かぶ。
「……あれ? なんか……」
「どう?」
「美味しい……です。それに、すっと入ってきました。胃が重くないっていうか……指先が、ちょっと温かい気がします」
当然だ。
私はニヤリと笑った。
「普通の食事――例えば肉や魚のタンパク質は、消化吸収されるまでに三〜四時間かかるわ。消化のために内臓もエネルギーを使うから、食べた後に眠くなるの」
私は人差し指を立てて解説モードに入った。
「でも、このEAAは違う。タンパク質を極限まで分解した『アミノ酸』の状態だから、飲んでからたった二〇分で血中に届くの。内臓に負担をかけずに、ダイレクトに細胞の修復材料になる。いわば『飲む点滴』の進化版よ」
私は彼に顔を近づけ、その淀んだ瞳を覗き込んだ。
「一ノ瀬さん。あなたは『過労』だと思ってるでしょうけど、半分は『栄養失調』よ」
「こんなにカロリー摂ってるのに?」
「カロリーはあっても『栄養』がないの。今のあなたは、ボロボロの家を修理する大工はいるけど、木材(アミノ酸)が届いていない現場監督みたいなもの。だから資材不足で、自分の身体(筋肉や肌)を削って動くしかない」
一ノ瀬はハッとした顔をした。
システムエンジニアである彼には、現場の例えが刺さったらしい。
「……資材不足の現場……納期直前のデスマーチ……」
「そう。だから私が、最高品質の資材を搬入してあげる」
私はもう一本、今度はマルチビタミン&ミネラルのサプリメントケースをテーブルに置いた。
これで基礎工事の準備は整った。
「いい? これからのルールは三つ」
私は一ノ瀬の目の前に、指を三本突きつけた。
1.喉が渇く前に、この「浄水」を飲むこと。(一日二リットル目標)
「人間の身体の六〇%は水。泥水の中で金魚は飼えないでしょ? まずは体内の水を入れ替えるの」
2.空腹を感じたら、コンビニに行く前に「EAA」を飲むこと。
「血糖値を乱高下させないためよ。お腹が空いた=筋肉が分解されているサインだから、即座にアミノ酸をチャージしなさい」
3.私の許可なく、酸化した油(揚げ物・スナック菓子)を口にしないこと。
「これが一番重要。細胞膜を柔らかくするために、悪い油を断ち切るの」
「これを守れるなら、一ヶ月後、あなたは別人のようになれる。鏡を見るのが楽しくなるわよ」
一ノ瀬は、空になったシェイカーと、自分の手のひらを交互に見つめた。
その顔に、昨日までの「諦め」とは違う、微かな光が宿っているのを私は見逃さなかった。
EAAの効果か、それとも希望の効果か。彼の頬に、ほんのりと赤みが差している。
「……やります。僕、変わりたいです」
彼は顔を上げ、私を真っ直ぐに見た。
その瞳の奥に、本来彼が持っていたであろう理知的な光が見えた気がした。
「九条さん、僕の管理者になってください」
「よろしい」
私は彼の手を取り、強く握手をした。
彼の手はまだカサカサで冷たい。
でも、骨格はいい。指も長い。爪の形も綺麗だ。
磨けば光る。絶対に光る。
私の脳内で、彼が放つであろう未来の輝き(ビジョン)が弾けた。
「さあ、まずはこの汚部屋の大掃除を終わらせるわよ。窓を開けて! 空気を入れ替えるの!」
「はいっ!」
一ノ瀬が弾かれたように動き出した。
ゴミ袋の山が築かれていく。
その光景を見ながら、私は確信した。
このプロジェクトは、間違いなく成功する。そしてそれは、私が今まで手掛けてきたどんな新商品開発よりも、エキサイティングなものになるだろう、と。




