第10話:契約成立
一ノ瀬は、テーブルの上の水と、私を交互に見た。
その瞳が揺れている。
「……僕、変われますか?」
消え入りそうな声だった。
それは、諦めかけていた自分自身への、最後の問いかけのようだった。
「変われるわ。骨格はいいものを持ってる。磨けば光るわ。私が保証する」
私は彼を真っ直ぐに見つめ、断言した。
嘘ではない。私の目は誤魔化せない。
一ノ瀬の目から、一筋の涙がこぼれた。
自分でも驚いたように、彼は慌てて手で拭った。
「……お願いします。もう、自分じゃどうにもできなくて……助けてください」
彼は深く頭を下げた。
その姿は、神に祈る信徒のようでもあり、主人に忠誠を誓う騎士のようでもあった。
よし、落ちた。
私は口元が緩むのを必死に抑えた。
「交渉成立ね」
私は彼の手を取り、強く握手をした。
彼の手はカサカサで冷たく、骨張っていた。
だが、指は長い。爪の形も綺麗だ。ハンドクリームを塗り込み、ネイルケアを施せば、色気のある手になるだろう。
ああ、忙しくなる。
まずはあの汚部屋の掃除からか。それとも冷蔵庫の断捨離か。
やることは山積みだ。でも、不思議と嫌な気分ではなかった。
「さあ、まずは手始めに……その甘ったれた顔を洗ってきなさい。私の洗顔料を貸してあげる」
「は、はいっ!」
一ノ瀬が弾かれたように立ち上がった。
深夜二時四五分。
こうして、私と社畜SEの、奇妙で過酷で、そして最高にコスパの良い「腸活育成契約」が結ばれたのだった。
(第1章・完)




