第1話:湿度60%の聖域と、25万の家賃
深夜二時。
東京都港区、高層マンションの一室。
世界が寝静まったこの時間は、私――九条美玲にとって、何人たりとも侵すことのできない聖なる「儀式」の時間だ。
大型の加湿空気清浄機が、青いLEDランプを点灯させながら静かな駆動音を立てている。
現在の室内湿度は六〇%。気温は二四度。
これは、皮膚の水分蒸散を防ぎ、バリア機能を最大限に維持するための黄金比率だ。
私は洗面台の大きな鏡の前に立ち、己の顔を見つめた。
三〇歳という年齢は、美容業界において一つの分岐点とされる。
何もしなければ、重力と酸化ストレスが容赦なく肌を蝕んでいく。だが、適切な「科学」と「投資」を投下すれば、年齢は単なる数字記号へと成り下がる。
「……よし。今日も異常なし(オールグリーン)」
指の腹で頬に触れる。
吸い付くような感触。毛穴の開き、ゼロ。くすみ、なし。
私は満足げに頷き、一瓶一万八千円する導入美容液を手に取った。
スポイトで一滴。手のひらで温め、顔全体に優しく押し込む。
決して擦らない。摩擦は肌に対する暴力だ。角層を傷つけ、微細炎症を引き起こし、やがては肝斑という名の呪いとなって肌に刻まれる。
私は大手化粧品メーカーの研究開発部に所属している。
来る日も来る日も、顕微鏡で細胞を見つめ、成分データの羅列と格闘している「美のリケジョ」だ。
世間の女性たちは、美容を「魔法」や「奇跡」のようなふわふわした言葉で語りたがる。
だが、私に言わせればそれは誤りだ。
美容とは「化学」であり、「統計学」であり、そして何より――「投資」に対する冷徹なまでの「リターン(対費用効果)」の追求である。
鏡の中の自分に向かって、私は心の中で語りかける。
――私の肌は、私の資産ポートフォリオそのものよ。
この輝きを維持するために、私は手取り給料の半分と、プライベートの時間のほぼ全てを捧げている。
「恋愛? 結婚? ……ハッ、非効率な」
ふと脳裏をよぎった、同僚たちの寿退社の笑顔を、私は鼻で笑い飛ばした。
他人という不確定要素にリソースを割くなんて、ギャンブルにも程がある。
恋をすればホルモンバランスは乱れ、相手の一挙手一投足にストレスを感じ、コルチゾールが分泌される。
コルチゾールはコラーゲンを破壊し、肌のバリア機能を低下させる。つまり、恋愛は美容の敵だ。
私は独りでいい。
この完璧にコントロールされた部屋で、完璧な肌と共に生きていく。それが私の選んだ最適解だ。
パッティングを終え、最高級シルクのナイトガウンを羽織る。
ふと、足元のゴミ箱が目に入った。
今日は燃えるゴミの日だ。
生活感の塊のようなゴミ袋を手に取り、私は小さくため息をついた。
「……捨てに行くか」
この聖域から一歩でも外に出るのは億劫だが、ゴミという「不浄」を部屋に留めておくことは、私の美学に反する。
私はスリッパを履き、重厚な防音ドアを開けた。
この数分後。
私の「効率至上主義」な人生設計が、音を立てて崩れ去る――いや、想像もしなかった方向へ爆走し始めることになるなんて、この時の私は知る由もなかった。




