偶然や運命なんて信じません
「やあ、イルゼ。偶然だね!」
今朝も会ったばかりの男が、これでもかというほど眩しい笑顔を浮かべて手を振ってきた。
犬を連れて日傘を差しながら、静かに公園を散歩していたというのに――この偶然はあまりに不自然だ。
その輝きすぎる笑顔を浴びた瞬間、目が潰れそうになる。できることならそのまま引き返したい。
「……何かご用でしょうか? エリオット卿」
「またその呼び方かい? レオンと呼んでくれよ」
「……ご用がないのなら、失礼いたします」
イルゼはレオンの横をすり抜けて歩き出す。だが、彼は当然のように隣に並んだ。
「つれないなあ……。僕と君の仲じゃないか?」
――その「仲」とやらは、すでに終わっている。
なぜ当人がそれを理解できないのか、イルゼには本気でわからない。
「エリオット卿。私と貴方様は、元婚約者です。
こんなふうに連れ立って歩いていたら、周囲にあらぬ誤解を招きかねません」
できるだけ冷静に、しかしはっきりとした口調で言い放つ。
だが、レオンは微笑みを崩すことなく、さらりと返した。
「それは好都合だな。
――君を誰にも渡さなくて済む」
ふざけた調子で言っていたはずの男が、突然真剣な瞳でこちらを見つめてきた。
その視線に、イルゼの胸が思わず――不覚にも、どきりと跳ねた。
……顔が、好みすぎるのだ。
だから困る。いっそ顔だけ誰か別人と取り替えたいくらいには。
「ここで会えたのも、何かの縁――違うかい?」
囁くような甘い声が、耳元をくすぐる。
一瞬、思わず頷きかけてしまった。危ない。非常に危ない。
「……違います。ただの偶然ですわ。
こんな偶然、もう二度とないかもしれませんね」
きっぱりと言い切ってみせるが、心のどこかで“もう一度くらいなら”と思ってしまった自分を、イルゼは心底警戒した。
***
「やあ、イルゼ。偶然だね」
――またそのセリフ。
昨日とまったく同じ笑顔を浮かべて、行きつけの店の前に立つレオンを見つけたイルゼは、反射的に踵を返したくなった。
「……エリオット卿。どうしてこちらに?」
ここは女性向けの小物を扱う、洒落た小さな店だ。
男一人で立ち寄るような場所では、まずない。
「レオンと呼んでくれよ。妹の誕生日が近くてね、贈り物を探しているんだ。
以前、君がこの店によく来るって聞いたからさ」
その言葉に、イルゼはふと記憶を辿る。
――ああ、確かに話したかもしれない。
婚約していた頃、誕生日の贈り物が欲しいとは言えずに、控えめに「このお店、素敵なんですの」とだけ告げたことがあった。
けれど、当時のレオンは興味なさげで、結局贈られたのは別の店の髪留めだった。
だから、その時の会話も、気遣いも、彼の中ではとっくに消えていたのだと思っていた。
――それを、今さら思い出されたって。
言いようのない居心地の悪さが、胸の奥にじわりと広がる。
「良かったら――妹への贈り物、一緒に選んでくれないか? 女性の好みには少し疎くてね」
その一言で、イルゼの脳裏にレオンの妹の顔が浮かんだ。
彼に似た、明るく可愛らしい少女――アンネマリー。
かつては義姉として慕ってくれた、素直で愛らしい子だ。
……彼女を持ち出されてしまっては、無下にはできない。
「アンネマリーは、お元気?」
「ああ。君に、また会いたがっているよ」
その言葉に、罪悪感が胸をひっかいた。
――あれほど懐いてくれた少女に、イルゼはろくに別れも言わずに婚約を解消してしまったのだ。
(……せめて、贈り物くらいは、彼女が喜ぶものを)
自分に言い聞かせるように、イルゼはそっと頷いた。
店内を見て回る間、レオンは自然な笑顔でイルゼの隣を歩いていた。
その姿はどう見ても、仲の良い恋人同士にしか見えない。
本当は、赤の他人のふりを貫きたい。
けれど――「このブローチはどうかな?」と尋ねられれば、無視することなどできるはずもなく。
「アンネマリーなら、こちらの桃色がお好みでしょうね」
少女らしい無邪気さの残るアンネマリーには、この可愛らしいブローチがよく似合うはずだ。
「君自身は、どれが好きなんだい?」
「わたくしなら――水色のこちら……いえ、ブローチには特に興味はありませんの」
危うく、相手のペースに乗せられるところだった。
これ以上、毎朝の花に加えて贈り物攻撃まで始まっては、いくら広い屋敷でも逃げ場がなくなる。
「では、この桃色のブローチにしよう」
そう言ってレオンは、桃色のブローチだけを選び、代金を支払った。
本当にアンネマリーへの贈り物だったのだと、ホッとする。
……けれど、それと同時に、胸の奥にかすかな寂しさがよぎった。
――もちろん、それは決して。
レオンに贈り物を選んでもらえたアンネマリーが、羨ましいなどという話では、ない。




