恋などするものではございません
社交パーティー、舞踏会、晩餐会――。
この数ヶ月で、ありとあらゆる行事に参加した。
会話の波に乗り、相手の言葉に笑い、礼儀を尽くす。
気の合う相手も、数人はいた。時間を共にしていて心地よいと感じる人もいた。
そのうちの誰かから、いつか求婚されるかもしれない。
そうなれば、それを受け入れるつもりだった。
けれど、どうしても――胸が高鳴るような恋には、出会えなかった。
燃えるような恋も、優しく包まれるような恋も。
どちらも、イルゼには――もう遠い昔の夢のように思えた。
人として尊敬できる人はいた。会話が楽しいと思える人もいた。
けれど、それ以上の想いが芽生えることはなかった。
たぶん、それは相手も同じなのだろう。
愛はなくても、利害が一致し、嫌悪感がない――。
そんな誰かと家庭を築いていくのも、ひとつの幸せなのかもしれない。
夫婦というより、家族。
あるいは、人生の戦友のような関係。
それもまた、立派な“愛”のかたちなのだと、思うようになっていた。
――燃え上がることはないけれど、
静かで、安定していて、心をすり減らすこともない毎日。
恋に傷つき、期待し、裏切られて。
そんな日々から、もう解放されたっていいはずだった。
「――縁談……ですか」
その名前を聞いた瞬間、イルゼはわずかにまばたきをした。
提示された相手は、以前から想定していた“候補”のひとり。
家柄も、資産も、人柄も申し分ない。互いの利害も一致している。
「まあ、悪くはないよ。条件としてはね。でも……いいの? レオン君のことは」
不意に名前を出されて、胸の奥がちくりと痛んだ。
(やっぱり、まだ……)
以前よりは、随分ましになった。
けれど――それでもレオンの名を耳にすれば、心のどこかが疼く。
自分の諦めの悪さに、呆れたような、腹立たしいような気分になる。
「……もちろんですわ。進めてくださいませ」
ほんの一瞬、空を見上げてから答える。
レオンの顔は思い出さないようにして。
「……あっ、ちょっと待って。そうだった、忘れてた。もうひとつ、お見合い話があったんだよね」
「……お見合い、ですか?」
「そうそう。先方がぜひに、ってね。すごく気に入ってらして。ただ、会ってみて気に入らなかったら、断ってもらって構わないよ?」
気楽な調子でそう言われたが、イルゼは少しだけ考え込む。
“ぜひに”――そこまで言われて断る理由は、もうない。
条件さえ整っていれば、その求婚を受けるつもりだった。
「……わかりました。お受けします」
「よかったー。断られたらどうしようかと思ってた」
「……困るようなお相手ですか?」
そう尋ねると、父は妙な顔をして肩をすくめた。
「うーん、まあ……そんなところかな?」
***
見合いの日――。
イルゼは丹念に整えられた髪にリボンをあしらい、刺繍の美しいドレスを身にまとって、応接室の椅子に静かに座っていた。
背筋を正していても、胸の奥にはどこかざわつくものがある。
(お見合い……こんなにも落ち着かないものなのね)
やがてノックの音。扉がゆっくりと開いた。
「失礼します――」
入ってきた相手を見た瞬間、イルゼの呼吸が止まった。
正装したレオン・エリオットがそこに立っていた。
「久しぶりだね、イルゼ」
「……どうして、貴方が?」
かろうじて絞り出した声は、思わず震えた。
信じられないものを見るように父を見ると、彼は気まずそうに目をそらし、
――まさかの口笛をごまかすように吹いていた。
(まさか……父が仕組んだの?)
呆然としたままイルゼが言葉を失っていると、レオンは真っ直ぐ彼女を見つめて言った。
「イルゼ、これが最後で構わない。……僕に、チャンスをくれないか」
「……チャンス?」
わずかに眉が動く。今さら何を言うつもりなのか。怒りも呆れも追いつかない。
だが、レオンの表情には、これまでとは違う決意が浮かんでいた。
その瞳は、もう迷ってなどいなかった。
「君と、ちゃんと話がしたい。……話せるまで、帰らない」
真っ直ぐで、強くて、どこか懇願にも似た響きを帯びた声だった。
イルゼは目を細めて彼を見つめた。その真剣な眼差しに、有無を言わせぬ迫力を感じながらも、唇は冷たく言葉を紡ぐ。
「……私は話すつもりなんて、ないわ」
静かな拒絶だった。だが、レオンは黙って何かを取り出す。
「――これでも?」
その手の中にあったのは、日記帳と髪飾り。
イルゼがかつて自らの手で焼却炉に捨てようとした、過去の象徴。
胸が、きゅっと締めつけられる。
「……それは、どこで……!」
「君の家のメイドが持っているところを見つけた。焼却炉の前だったよ。君が命じたんだろう?」
イルゼは言葉を失う。心の奥にしまって鍵をかけたはずの記憶が、にわかに脈打ち始める。
レオンは、日記帳をそっと胸元に抱えながら、静かに言った。
「……過去の君と話がしたいんだ。
その想いを書いた君の言葉と、君の涙と、あの頃の微笑みと――全部、僕は見落としてた。だけど、今なら……ちゃんと向き合えるかもしれない」
沈黙が降りた。
長い、長い一瞬。
イルゼは瞼を伏せて、小さく息を吐く。
「……わかったわ。話くらいなら、してあげてもいいわ」
それは、拒絶の先にある、ほんのわずかな手のひら。
彼女の中で何かが動き始めた音が、確かにそこにはあった。
「これから話すのは――今の君にじゃない。
あくまで、あの頃の、過去の君に向けた言葉だ」
レオンは、手の中の髪飾りと日記帳を見つめながら言った。
イルゼは黙って頷く。すでに何度も繰り返してきたこと。わかっている――というように。
「――僕は、君にまるで興味がなかった。
婚約者である君と過ごす時間は、正直、退屈だった。
女の子と過ごすより、友人たちと馬に乗っている方がずっと楽しかった」
静かな告白に、イルゼは目を伏せた。
「ええ。知っていたわ」
わかっていた。だからこそ、あの日、心が壊れたのだ。
レオンは言葉を止めない。
「でも……それは、あの時の僕だ。未熟で、何もわかっていなかった愚か者。
だけど今は違う。君がどれだけ僕を見てくれていたのか、どんな気持ちで隣にいてくれたのか、やっと気づいた。
日記を読んで、ようやくわかったんだ」
彼は日記帳に手を添えながら、イルゼの目をまっすぐ見つめた。
「――今の僕は、君が好きだ。
過去の君も、今の君も。全部ひっくるめて、愛おしいと思ってる」
それは一見、身勝手な告白。過去に気づかなかったことを今さら後悔し、償いたいという一方的な想い。
でも、イルゼにとって――ずっと欲しかった“もしも”の言葉でもあった。




