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婚約破棄?ならば決闘です

「イルゼをどう思ってるかって? あんな退屈でつまらない女、今すぐ婚約なんて破棄したいくらいだよ」


 ――その言葉が、はっきりと耳に届いた。


 それは、婚約者であるレオンが友人たちとサロンで交わしていた会話の一部だった。


 イルゼは、レオンが先日会った際に置き忘れていった手袋を届けに来たところだった。案内役のメイドとともに、たまたま扉の前を通りかかっただけなのに。


 言葉を聞いたメイドは、まるで血の気が引いたかのように顔を青ざめさせ、うろたえている。


 本来なら、婚約者が「退屈」だの「つまらない」だのと侮辱されれば、相手の名誉を守るため、男同士で決闘を申し込むのが紳士たる者の矜持だ。


 だが、侮辱した張本人が――その当の婚約者だった場合、どうすべきだろうか。


 イルゼは静かに深く息を吸う。


 ――答えは、ひとつ。


 扉をノックすると、部屋の中から呑気な声が響いた。


「どうぞ」


 その声とともに、扉を開け放つ。イルゼはドレスの裾を優雅に揺らしながら、迷いなく足を踏み入れた。


 笑い声が止まり、数人の視線が彼女に集中する。


「……イルゼ? まさか、今の聞いていたのか?」


 レオンの顔に一瞬、焦りの色が滲む。


「ええ。忘れ物をお届けに参ったのですが……何やら楽しげなご歓談が聞こえましたので。つい」


 イルゼは、涼やかな微笑を浮かべたまま、手にしていた手袋をレオンの足元へと放り投げた。


 ぽすんという音とともに、手袋は彼の足元に落ちる。


「――っ! な、何をするんだ! 危ないじゃないか!」


 レオンが眉をひそめ、手袋を拾い上げる。


 その瞬間、イルゼの瞳がかすかに揺れた。


 怒り。

 ――いや、侮辱されたことへの静かな憤りが、確かにその奥底ににじんだ。


 だが彼女はすぐに感情を押し隠し、冷ややかな笑みを浮かべ直す。


「拾いましたわね」


「は? ……ああ、拾ったが? それがどうかしたのか?」


「よろしい。では、決闘です」


 その一言に、サロンの空気が凍りついた。

 レオンも、その友人たちも、面白がっていた顔がみるみる強張っていく。


 イルゼはゆっくりと姿勢を正し、胸を張って一礼した。


「決闘の日時と場所は、あらためてご連絡いたします。では――皆さま、ご機嫌よう」


 優雅さを崩さず、しかしその背に揺るぎない意志をにじませて。

 イルゼはドレスの裾をたなびかせながら、毅然とした足取りで部屋を後にした。



 翌日、レオンとレオンの友人たちの元には次のような手紙が届いた。

  

---


決闘通告状

差出人:イルゼ・フォン・ヴァイセンベルク


宛先:レオン・エリオット卿


謹啓――


 去る○月○日、貴殿が社交サロンにて発した言葉により、わたくしイルゼの名誉は深く傷つけられました。貴殿が婚約者としての誠実を欠き、貴族の矜持に背いたこと、また見届人たちの前で公然と侮辱された事実をもって、決闘を申し入れます。


 決闘の日時および場所は、以下の通りです。



---


日時:五日後(○月○日)、第二鐘(午前九時)

場所:聖エミリア教会 裏庭『静寂の庭』

見届人:双方より一名ずつ立てること

形式:剣による一騎打ち。名誉の回復を目的とし、死傷を前提とせず。勝者の宣言は見届人によって行う。



---


神の御前において、偽りなき言葉と剣をもって名誉を示されんことを。


敬具

イルゼ・フォン・ヴァイセンベルク



---



 空は鈍色に曇り、うっすらとした霧が聖エミリア教会の石造りの鐘楼を包んでいた。鐘の音すら吸い込まれていきそうな、沈黙の朝だった。


 教会裏手に広がる『静寂の庭』には、花の咲かぬ季節にもかかわらず、朝露に濡れた草が凛として茂っている。かつて殉教者の墓があったとも、祈りの神官が隠遁したとも噂されるこの場所で、数多の名誉が剣によって守られてきた。


 そんな由緒ある庭に、イルゼは静かに姿を現した。


 真っ白な武道服に身を包み、長く伸びた金髪をひとつに結い、まっすぐ背を伸ばして立つ姿は、まるで天窓から差し込む一筋の光のようだった。


 既に到着していたレオンとその友人たちは、普段の軽薄な笑みを浮かべる余裕もなく、どこか緊張した面持ちで沈黙している。


 やがて、教会の神官が前へと進み出た。


 十字を切り、天を仰いだのち、静かに宣言する。


「ここに、神の御前において――名誉をかけた決闘が執り行われる」


 その言葉とともに、風が葉を揺らし、場が張りつめた沈黙に包まれた。


 イルゼは一歩、前に出る。


 その手に握られたレイピアが、まっすぐレオンの胸元を指した。

 その動きには、一切のためらいもなかった。


「イルゼ……本気か?」


 かすれた声でレオンが問う。


「もちろんですとも」


 イルゼは一瞬だけ、唇の端を上げて優雅に笑んだ。


 それは、かつて婚約者として彼に向けていた微笑みとはまるで違う。

 軽蔑も怒りもない。ただ、決然とした誇りの笑み。


 次の瞬間にはその表情も消え、彼女の顔には鋼のような真剣さだけが残っていた。

 

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