第九話 また会えてよかった
「いってらっしゃい」
「いってきます」
長時間の移動と時差の関係で、まだ疲れが残っているであろう達海を起こさないようにと、支度をしていたのだけれど、家を出る直前にのそりと起き出して、見送ってくれた。
涼風はそんなささやかなことに喜びながら玄関のドアを閉めた。きっとこの後また眠るのだろう。それでよかった。
仕事を辞めてきたと簡単に言っていたが、そんなに簡単なことなのだろうか。
モデルという仕事については、どんな契約で、どんな内容なのかはまったくわからない。
それでも、達海は知る人ぞ知るブランドのカタログやポスターを彩り続けてきたことだけはわかっている。
達海はモデルの仕事についてあまり話そうとしなかったし、涼風も特に尋ねることはなかった。
興味がないといえばそれまでだったが、モデルをしている達海は、知らない人間のようで、それが気に入らなかったといえば、そうだ。
知らなければ、知らないままで済む。
目の前にいる達海だけが、涼風の知る達海なのだ。
高校を卒業してすぐになにも言わずに姿を消した達海。
きっとまたいつか、目の前からいなくなってしまうかもしれない。
そういった不安が涼風にはずっと付きまとっている。
一度生じた不信感は、簡単に拭うことができないのだと知った。
達海と共に過ごし、達海のことを好きになり、達海がすべての中心となったとき、そのときは誰よりも自分が一番幸せだと思っていたのだ。それが、一瞬にして消え去ることがあるだなんて、思いもしなかった。
(どうしたら、いいのかわかんねぇ)
達海がそばにいてくれたら、それでいいのか。
達海がもう二度となにも言わずに姿を消すことはしないと、約束してくれたらいいのか。
涼風にはわからなかった。
最寄り駅に到着するとあっという間に人混みに流されていく。
列をなしてはいるものの、次にきた電車に乗れるのかどうかわからないほど、ホームには人が溢れていた。
ほどなくしてやってきた電車にぎゅうっと詰め込まれるように乗せられ、身動きがほとんど取れなくなる。昨日の夜に食べたおにぎりのようだと思えば、自分は米なのか具なのかを考える。
(鮭もうまかったなぁ……)
駅前のおにぎり屋のおにぎりがおいしいことは知っていたが、昨日食べたおにぎりは以前食べたものよりずっとおいしかった。それを思い出していると、空腹を刺激されていく。
朝ごはんは会社の最寄りのコンビニでパンでも買えばいいと思い、食べてはいなかったせいだ。
今日からまた家に帰ると達海のいる生活になる。
そう思えば、どんな一日でも乗り越えられるような気がした。
(あのめちゃくちゃすげーマンション、どうするんだろ?)
家賃や管理費などはこれからも支払っていけるのだろうか。
大学を卒業した後に再会した達海は、すでにマンションで暮らしていた。
詳しいことは聞いていないが、もしかしたら賃貸ではない可能性が出てきた。
(なんにもわかんねぇな)
自分たちは普段、どんな話をしているのだろうか。
仕事の話はほとんどしていない。
給料の話もしたことはなかった。
達海からは仕事で出かけた先の海外の話を聞くことが多いかもしれない。
石畳の路地裏で見つけた黒猫の話とか空の色が日本とは違うとか。
あまりにも特別な話をしていないせいで、会話の内容がほとんど思い出せない。
きっと、それでいいのだとも思う。
記憶に残らないようなくだらない話をして、話をしなくとも気まずくなくて、ただそこにいるから、居心地が好い。
達海がいれば、きっとそこが自分の居場所なのだ。
『俺も涼風がいないと生きていけないってわかった』
脳内に響くのは、初めて聞いた達海の告白だった。
もちろん、好きとか愛してるとか、そういった言葉は交わし合うこともある。
そうではなく、達海の見えなかった心の一部が見えたような気がした。
いつかまた居なくなるかもしれない。
その不安が、少しだけとけたようだった。
「俺も……」
ぽつりと呟けば、一気に自覚したかもしれない。
達海がいないと生きていけない。
けれど、達海はいなかった。
そばにいて欲しかったのに、達海はいなかったのだ。
高校を卒業してから、大学を卒業するまでの間、記憶の中に達海はいない。
いまだに、死んだように暮らしていたその期間を思い出すたびに、黒く塗りつぶされたような気持ちになる。
もう二度と会えないかもしれない。
その恐怖もまた拭えないままだった。
(生きてた……)
そう。
達海がいなくても生きてはいたのだ。
会いたかった。
声が聞きたかった。
それは、何度も願い、そして叶うことはなかった。
過去はもう取り返すことはできない。
そうであれば、今を、これからを、大切にしなければと思う。
(今、達海は、いる)
会社の最寄り駅を告げるアナウンスが響いた。
涼風は慣れたようにぎゅうぎゅうに詰めこまれた人間たちの間を抜け出して、電車を降りた。
ようやく呼吸ができたような気がした。
ほっと息を吐いて、歩き出す。
最愛の恋人に二度と会えないかもしれないという日々を過ごし、そして、突然再会できたことは、涼風の傷でもあり、力でもあり、糧でもあった。
(今日もいい天気だな)
駅を出ると、ビルとビルの間から青空が見えた。
涼風は気持ちを切り替えるように、会社に向かって歩き出した。
終わり




