第五話 いつだって突然
「涼風、俺、明日から一ヶ月イタリアだから」
達海がこの部屋で過ごすようになって三日目の夜のことだった。
いつものように達海が作ってくれたおいしい晩ごはんを食べた後で、その仕打ちである。
今夜は野菜炒めだった。キャベツとタマネギとニンジンともやしにピーマンの野菜たっぷりに豚肉もたっぷりだった。高校時代に通った学校近くの定食屋の野菜炒めを思い出してしまうほどのボリューム感に笑いながらおいしく食べた。本当においしかった。
「は?」
「言ってなかったっけ?」
もちろん、聞いていない。初耳である。
達海の明日からニューヨーク、明日からフランス、明日からイギリス、明日からインド……みたいなことは、もうこの三年で随分と慣れたが、それでもやっぱり驚く。しかも一ヶ月というのは、本当に久しぶりのことで、一ヶ月ってどれくらいだっただろうかなどと思ったりもする。
「聞いてねえよ! しばらくいるって言ってたじゃん」
「そっか。今言った。というか、昨日決まったんだよね」
「お前なぁ」
突然決まって、突然イタリアに行けてしまう達海の自由さは、ずっと変わらない。それが達海らしさでもあるのだけれど、寂しさはよぎる。こればかりは、きっと、一生慣れることはないのだろう。
「それでさぁ、涼風の引っ越しの件、まだ期間あるから大丈夫だとは思うけど、俺が帰ってくるまでに追い出されそうになったら、勝手に引っ越してきていいよ。鍵、渡しとく」
差し出されたカードを見て、達海の暮らしている部屋を思い出す。駅から徒歩五分もないところにある十階建てのマンションの六階の一室である。3LDKの一人暮らしには広すぎるほどの贅沢な部屋だ。
マンションの出入り口はオートロックで、管理人が二十四時間常駐していた。また、住居のカードキーを持っていないとエレベーターにも乗れない程のセキュリティだった。
そんな厳重なセキュリティでなければならない条件でもあるのかと聞けば、モデルの仕事を管理しているマネジメント会社が紹介してくれたから、よくわからないとの答えだった。達海本人はどこでも良かったらしいが、駅から近かったから、そこでいいよとなったそうだ。そんなところに押しかけていいのかと何度も確認したが、紹介してはくれたが、契約者は達海本人で、家賃も達海の口座から自動で引き落とされているから、マネジメント会社は関係ないとのことだった。
「それ、涼風専用ね。ちゃんと名前登録してあるから、落としたり失くしたりしたらすぐ管理人に言って。使えないようにできるからさ」
「うん、わかった」
「マンションの入り方もエレベーターの使い方もわかるよね?」
「それくらい覚えてるよ!」
「ふふっ。なんか初めて見た~みたいな顔してるから」
「いや、えっと、本当に一緒に暮らすんだなって思ってただけ」
引っ越しの話をしてからずいぶんと経つのだけれど、いまだに実感がわかないのは、達海がこの部屋に馴染んでいるからだ。
「涼風はかわいいなぁ」
「うるさい」
「明日から一ヶ月いないけど、ちゃんと涼風のところに帰ってくるからね」
「連絡も寄越せよ」
さすがに行方不明だった四年間とは違う。期間は異なるが、一週間でも一ヶ月でも達海は二日に一回は連絡をくれるようにはなった。電話は嫌だというので、常にメールだけだったが、それだけでも良かった。
「はいはい」
にこにことご機嫌に笑う達海はいつだって楽しそうに生きている。一ヶ月も会えないなんて寂しくなると、最初のころに伝えたら、俺もだよと答えた。だから、電話はしない。声を聞いたらもっと会いたくなるでしょと、珍しく真剣な声音が響いた。
「達海」
「ん?」
「追い出されるようなことがなければ、一ヶ月後もここで待ってる」
「俺もそれがいいな」
ふ、と、嬉しそうに微笑む達海を引き寄せて、口づける。どんなに近くにいても、どんなに抱きしめても、達海はするりとすり抜けて行ってしまう。
もともと思いついたからと、自由に世界へと羽ばたくようなやつなのだ。自分に用意できるのは、達海が疲れたときに安心して立ち寄れるための巣箱くらいだった。
「達海」
「好きだよ、涼風」
「俺が! 言うところ!」
「はははっ」
「好き」
見つめ合ったお互いの瞳の中にお互いの顔だけが映る瞬間、本当に、心から、好きだと、思う。
誓うように、祈るように、唇を重ね、抱き合った。
爽やかで、甘く、それでいて、すぐに消える。
達海から、なんだか懐かしさを感じる香りがした。
「香水、変えた?」
「涼風が好きって言ってたヤツ」
高校生のころに、気に入ってつけていた香水を見つけたから、久しぶりに買ったんだと笑った。
「俺も好き」
「香りが?」
「達海が!」
もう一度キスをして、そうして、笑い合う。
次に会うときも同じ香りがいいとねだれば、覚えてたらねと、それだけだった。
終わり