第三話 記憶に残る香り
「ほら、着いたぞ。今村」
タクシーから意識のない成人男性を引きずり降ろしながら、運転手に少し時間がかかるかもしれないが、待っていてくれと頼む。
「今村先輩~、起きてくださいよ~」
今村より一回りも小柄な須藤と二人で、どうにか今村を抱え、古びたアパートの二階を見上げた。一室だけ明かりの点いている部屋がある。
「森川先輩、今村先輩の部屋、知ってるんですか?」
「ああ、何度かこうして連れてきたことがある」
森川は慣れたように今村を抱えなおし、サビにまみれた鉄製の階段を昇る。背後から須藤が支えてくれている分、一人のときよりずっと楽に進めた。
「それにしても古いアパートですね」
「今村が大学時代から住んでたアパートでな。近々取り壊しされるんだそうだ」
「えー。マジっすか」
「住人の引っ越しはほぼ終わって、残るのは今村だけって話だ」
「じゃあ、なんで……」
部屋の明かりが点いていたんですか? と、須藤が続けようとしたであろう言葉を遮るように、二階の一番奥の部屋のドアが開いた。
「こんばんは」
出てきたのは今村の恋人である達海という男だった。今村が新人のころにこうして送り届けたさいに顔を合わせてから、もう何度も同じようなことを繰り返している。
「お、やっぱりいたのか」
甘く、やわらかな香りがふわりと漂う。初めて会ったときも同じような香りだったなと思い出せば、香りと記憶は結び付いているという話の信憑性は高い。とはいえ、森川が達海と会うのは、いつも今村の玄関の前で、ほんの数分の時間だけなのだけれど。それでも、印象に残るほどの悪くない香りである。
「今夜は会社の呑み会で遅くなると聞いていましたから」
「助かるよ」
「こちらこそ、毎回そこら辺で放り出さずに、ちゃんと送り届けてくださるこのに感謝していますよ、涼風が」
「はははっ。そこら辺に放り出しても構わないんだが、今村も大事な戦力なんでね。居なくなると困るんだ」
「ふふっ。優しい先輩に恵まれて、涼風も幸運ですね」
「そうかな……」
「森川さんのお話はよく聞いていますから」
にこにこと笑う達海に悪口じゃないだろうなと言えば、良いことばかりですよと答える。今村が他者を悪く言うところを聞いたことはなかったが、恋人の前でもそうなのであれば、根っからのいいやつなのだろう。今村の周囲がいつも賑やかなのは、そういった気質も関係しているようだ。
「あ、あ、あ、TATSUMIだ!」
背後で突然須藤が叫ぶものだから、驚いた森川は抱えた今村をうっかり落としてしまいそうになった。達海がかわりにふらつく今村をしっかりと受け止めて抱え直したところで、力持ちだなと森川は思った。
「たつみ?」
「ええっと、今、世界中ですげー人気のブランドの、専属モデルで、僕もそのブランド、すげー好きで……」
須藤の両目がまさにきらきらと輝き、アイドルに出会ったファンと同じような反応をしている。
「ありがとうございます」
達海は驚くこともなく、やわらかに微笑んだ。
「君、モデルだったのか」
「世界中を旅してた時にスカウトされて、そのまま続けてるだけなんです」
「なんの仕事をしているんだろうって思っていたよ」
「今は、ほぼ無職みたいなものですけどね」
またおもしろそうな話を持っているものだと思ったが、話を聞くような余裕はない。何度も会っているというのに、達海の職業を気にしたことがなかったのは、働いているイメージがなかったせいだろうか。
「おっと、タクシーを下で待たせたままだった。最近、大きなプロジェクトがあってね。今村にもかなり無理をさせたんだ。この土日はゆっくり休むように伝えてくれ」
「はい。承りました」
「本当にTATSUMI……さんなんですか?」
「俺がここにいることは誰にも言わないでもらえると助かります」
「もちろんです! 誰にも言いません! 僕、須藤良太って言います!」
須藤がそう言いながら差し出した手を彼は優しく握り返していた。握手を求められることに慣れているところを見れば、モデルをしているということも容易に信じられる気がした。
今村から恋人の話を聞くたびに、どこか浮世離れしている人間のような感想を抱いていたのだが、それもまた納得がいく。
「森川さんも須藤さんもお気をつけておかえりください」
今村を片腕と体で支えながら、片方の手を振ってくるその体幹と力の強さはモデルという仕事によるものなのかもしれない。見た目と異なり、体力仕事だと聞く。
森川は消えかけた外灯の下、慎重に階段を下りながらほっと息を吐いた。今村を送り届けるだけのはずだったが、思わぬ情報を得てしまった。
タクシーに乗り、次の行き先を告げると、ゆっくりと走り出した。
「今村さんの恋人って、あの人なんですか?」
「そうだよ。俺は今村からちゃんと紹介されたからな」
「家に帰ったらTATSUMIがいるなんて、そりゃ仕事もがんばれますよねぇ」
「そんなに有名人なのか?」
「日本だとまだ知ってる人しか知らないというか。このブランドです。先日、広告が新しくなって、珍しくTATSUMIが表に出たから、話題になっていました」
須藤がスマホの画面を見せてくる。そこには、青紫の薄い布を頭からかぶり、まっすぐにこちらを見つめてくる美しい男の顔があった。まるで、こちらの心を全部見透かしてくるような、そんな強い眼差しに、吸い込まれそうになる。
「いつもはカタログの中とか雑誌の広告にしかいなくて、こんな風にブランドの象徴みたいに出てくるの、初めてなんですよ。だからなおさら、顔を覚えてたというのもあります」
青紫はそのブランドのテーマカラーであり、この色が好きで、このブランドを愛用するようになったのだと、須藤が語るのを聞きながら、森川は今村から初めて恋人の話を聞いた時のことを思い出していた。
***
「恋人がいるのか?」
新入社員との懇親会の席だった。一ヶ月に渡る新人研修が終わり、来週からそれぞれの部署へと配属される新人たちは、入社式のときよりも少しだけ社会人らしくなっていた。
この年の新入社員の中でもやわらかな表情が優しそうだとすでに話題になっていた男が一人いた。それが今村だった。ここぞとばかりに、あれこれを聞き出そうと集まった好奇心旺盛な女性社員たちに囲まれて困っていたところを連れ出したのは、そろそろ宴も終わりに近づいていたころである。
ホテルの宴会場の壁際に二人で並んで立てば、今村は手にしたグラスの水面を見つめて頷いた。
「はい。といっても、最近まで四年間消息不明だったんですけど」
程よくアルコールが回っていたらしく、にこにこと笑いながら顔をあげ、急に重い話をしだした。それは聞いていい話なのかどうなのかを判断するよりも先に、今村は話し続けた。
「中学で同じクラスになって、意気投合して、めっちゃ仲良くなったんですよ。それで、同じ高校に進学して、ほぼ同時に告白をして付き合い始めたんですけど」
手に持っていたグラスの中身は、日本酒だった。酒には強そうだったが、酔うと饒舌になるタイプのようだ。
「高校の卒業と同時にいなくなっちゃって」
「いなくなった?」
「俺、あいつの両親とも仲良くしてたんですけど、卒業式の翌日、旅に出るって書置き残していなくなったって、真っ先に俺のところに連絡がきたんです」
「家出……?」
「そんなもんですよね。俺はもう大学に受かってたし、あいつは大学には行かないっていうのだけ知ってたんですけど、旅に出るとかは聞いてなくて」
グラスの中身を一口飲んで、そうして当時の気持ちを思い出したのか、寂しそうに眉尻を下げた。
「結局俺が大学を卒業するまで、一つも連絡寄越さなかったんですよ。両親にはさすがに生存報告はしてたみたいなんですけど」
それは、本当に恋人だったのかと聞いてみたくなったが、森川もグラスの中のビールを飲み干して、今村の話を聞くことに専念した。
「それで、大学の卒業式の夜、四年ぶりに会ったんですよ。そしたらあいつ『涼風のこと好きだよ』って、高校のときの告白とおんなじこと言ってきたんですよ。それまで、ずっと、心配もしたし連絡も寄越さなかったし黙って姿を消したことに怒ってもいたんですけど。なんか、もう、ぜんぶ吹き飛んじゃったんですよね」
どうにも時間の流れの違う、不思議な相手のようだと、森川は思った。
自分に置き換えることはさすがに難しかったが、それでも四年間、一度も連絡を取らなかった相手に対して、自分が嫌われることはないとの自信が見える。だからこそ、四年間音信不通でいられたのだろう。残された方はたまったものではないだろうにと、そんなことを考える。
昔から、小説を読んでもドラマを見ても映画を見ても、そうして自分だったらどう思うかを考えてしまう性質であることは自覚していたが、まさか新人から聞かされた話でそうなるとは思いもしなかった。
「俺もだけど! って反射で答えちゃって。別れたわけじゃなかったんですけど、また改めて付き合い出したみたいな、そんな感じです」
今村が手にしていたグラスいっぱいに入っていたはずの日本酒はいつの間にか空になっていた。まるでドラマのような嘘みたいな話を聞きながら、今村の恋人のことも今村自身のことも興味を惹かれたのは確かだった。
その後、同じ部署に配属されてきた今村は、その日のことを覚えていたのか、いないのかわからないまま、にこにこと人好きのする笑顔でよろしくお願いしますと言ってきた。
そして、迎えた歓迎会の夜だ。
上司から先輩からと、次から次へと飲まされた今村は、最終的にふらふらになっていた。
部長から飲ませすぎたな、悪かったと、タクシー代を渡されて、仕方なく今村を家まで送り届けることになってしまったのが最初だった。その後たびたび送り届けることになるとは、その時は思いもしなかったのは確かだ。
どうにか住所を聞き出して、到着した古びたアパートを見て、言葉を失った。あまりにも古いそのアパートに人が暮らしていることに驚いたのだ。しかもそのころはまだ今村のほかにも住人がいた。
部屋は二階ですが、歩けますと言ったその直後、躓いて転んだのを見て、階段から落ちたら大変だと、部屋まで送ることにした。玄関の前までやってきたところで、ドアが開いた。
「おかえりなさい、涼風」
姿を現したのは、今村と同じくらいの体格をした男だった。
「達海~、ただいまぁ~」
今村がふらふらの足で前に進み、出てきた男をぎゅうっと抱きしめた。そこで彼が四年間音信不通だった恋人なのだと知る。
「ここまで送ってくださったんですね。ありがとうございます」
達海と呼ばれた男が、今村のかわりに礼を述べた。
「森川先輩、こいつが恋人の達海です~」
急に背筋を伸ばしたかと思えば、くるりと振り返った今村が、ふにゃふにゃに崩れた顔でそんなことを言うのだから、笑いそうになるのをどうにか飲み込むので精いっぱいだった。その直後、今村はその場に座り込んでしまった。
「今ほど紹介に預かりました恋人の達海です。俺のことより、今村涼風のこと、これからもよろしくお願いします」
涼風の様子に驚くこともなく、むしろ嬉しそうな表情を見せた達海が、深々と頭を下げてきた。
「ああ。鍛えがいのありそうな男だよ。期待している」
「ふふっ。よかった。お気をつけてお帰りください」
顔をあげた達海が華やかに微笑んで、手を振って見送ってくれた。確かに、そのときも整った顔の美形だと思ったことも思い出した。
***
そうしているうちに、タクシーが緩やかに停車した。
須藤が語っていたブランドについて、改めて自分でも調べてみようと思った。仕方がない。初めて会ったときから、今村とその恋人の両方に興味を惹かれてしまっているのだ。
できることなら、この先も二人のドラマのような映画のような、小説のような、そんな関係を見守りたいと、ひそかに願っていた。
「僕の家まで送ってくださりありがとうございました」
「お前もゆっくり休めよ、須藤」
「はい。森川先輩、今日はおつかれさまでした」
「おつかれさま」
タクシーのドアが閉まり、走り出すまで須藤はその場に立っていてくれた。
部下に恵まれているのは自分の方だと、森川は満足そうに頷く。
月曜日、青い顔をして焦ったように謝ってくるであろう今村のことを想像しながら、森川は自宅の住所を運転手に伝えた。
終わり