表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/5

第一話 キミの香り

今村涼風25歳・社会人3年目。恋人の達海との日常のひとこま。

 久し振りに会った達海(たつみ)から知らない匂いがした。甘くて、それでいてしつこくなくて、さわやか。ふわりと香って空気に消える。あまりにもそれが達海らしくて、なんだか落ち着かなかった。

「合鍵、渡してんのに」

 玄関の前で座り込んでいる塊に声をかければ、ゆっくりと顔をあげてへにゃりと笑った。

涼風(すずか)、おかえり~」

 達海が両手を伸ばしてくるのを掴んで、引っ張り上げてやる。嬉しそうに立ち上がると目線が同じくらいになって、ほっとした。

 涼風はジーンズの後ろポケットから鍵を取り出して、玄関を開けた。古びたドアがきしんだ音を立てる。もうすぐ取り壊されてしまう古いアパートに、残っている住人は涼風だけだった。

 行くあてがないわけではない。荷物丸ごとと涼風本人を達海が受け入れてくれることになっている。達海の家は、ここからそう遠くない最寄駅近くのマンションの六階で、3LDKの広さがあるというのに、リビングしか使っていないというのだから、贅沢というか道楽というか、そのあたりの感覚はきっとずっとわからないだろう。

 それでも一緒に暮らせることを喜んだのは確かだ。達海が広い家に住んでいくれて良かったと思ったのは、そのときが初めてだった。

「香水、変えた?」

 中に入って明かりをつければ、畳み敷きの六畳一間の狭い部屋がある。

 玄関の脇には、コンロがひとつのミニキッチン。さらにこの部屋にはトイレと風呂があった。大学に進学し、初めて一人暮らしを始めてから、それでじゅうぶんに生活ができた。慣れてしまえば、狭くても快適な我が城である。

「俺? 嫌い?」

「嫌いじゃないよ。知らない香りだなって思っただけ」

 達海は出会ったころからずっと良い香りを纏っていた。不快に思ったこともなく、たまに違う香りになっても、悪くないものばかりだった。

「そう。じゃあ、よかった」

 涼風の質問に答えないまま、達海は先に部屋の中に入ると、お気に入りのクッションを抱え、そのままころりと横になってしまった。青色のパイル地で、ふかふかのやわらかいクッションは、達海が勝手に持ち込んできたものだ。

「寝る?」

 合鍵を忘れ、会話がまともに成り立たないということは、達海の疲労がピークに達している証拠である。この状態の達海の相手をするのは、初めてのことではない。どちらかといえば、この状態の達海の方が、日常的だった。

 涼風は返事がないことを確認して、部屋の隅に畳んでおいた毛布を達海にかけてやる。

 寒くない気温ではあったが、眠ると体温が下がってしまう。風邪をひかれても困るからと、あれやこれやと理由を考えて、それが意味のないことに気がついて、笑った。

(誰に言い訳してるんだろ)

 一度眠った達海が起きることはしばらくない。どんなに物音を立ててもよほどのことがない限り、目を覚ますことはなかった。

 涼風はコンビニで買ってきた弁当を食べながら、いつ達海の家に引っ越そうかと考える。

 達海の家には何度か行ったことがあるが、達海の纏う香りとはまた違った匂いに満ちていた。嫌いではなく、不快でもない。ただ、達海とは違うような気がして、落ち着かなかったことだけを覚えている。

 達海のいつもの香り。

 それを思い出そうとしても、よく覚えていない。

 ただ、好きだなと思った記憶だけ残っている。

(あの香り、またつけたらいいのに)

 高校生のころだ。

 放課後の教室で、初めてキスをしたときに、ふわりと漂った達海の香り。

 もう何年も前の話だというのに、その香りだけは鮮明に覚えている。

 からあげを一口で頬張って、眠る達海の顔を覗き込む。クッションに半分以上埋もれている顔に、どうやって呼吸をしているのか不思議に思うが、苦しくはないらしい。

(一緒に、暮らす?)

 達海と一緒に過ごせば、きっと、今よりもっとずっと楽しいだろう。

 それはわかっている。達海とは恋人同士になる前から、ずっと一緒だった。遊びも勉強もずっと一緒にやってきた。達海とともにいる楽しさは、誰よりも自分が一番よく知っている。

 ところがだ。

 高校を卒業してすぐに、達海は突然姿を消した。

 音信不通、消息不明。

 それが四年もの間続いた。

 涼風が大学を卒業した後に、ふらりと帰ってきた。

 この四年の間にどこに行っていたのかと聞けば、世界を旅していたという。

 高校卒業のお祝いに、父親から百万円を渡されたという。どうやって使おうかと思ったときに、世界中を旅しようと思いついたのだと笑った。

 それを両親に言えば反対されることはわかっていたから、誰にもなにも言わずに家を飛び出したという。それが四年間に渡る消息不明の理由である。後から聞けば、さすがに両親には途中で連絡を入れていたらしい。

『涼風に嘘を吐かせるわけにはいかなかったから』

 たったそれだけの理由で、達海は涼風とも連絡を取らなかったのだ。

(俺だって、嘘くらい吐くよ)

 その後、四年の間に書き綴ったという大量の旅の記録を渡された。どの国でも達海は楽しそうだった。

『うらやましい』

 そう呟いたら、達海が笑った。

『涼風が今の生活を捨てても良いよって思えたら、連れてってあげる』

 なんとも意地の悪い回答だった。

 達海の不在を忘れるがごとく、大学の四年間を真面目に過ごし、第一希望の企業に就職できたばかりである。そんなに簡単に捨てられるわけもない。けれど、達海とともに旅をするということは、そういうことだ。

 すぐには難しい。

 けれど、いつか、連れて行ってくれると約束をした。

(俺は、夢を見るんだ)

 砂漠の真ん中で、青空と赤い砂しかない世界で、達海と二人きりで立ち尽くし、そうして、達海がいるだけで良かったと伝える。

 たったそれだけの夢をもう何度も何十回も見てきた。

「達海」

 ふわりと香る、いつもと異なる匂い。

 それでも、心地好いと思えるのは、達海の纏う香りだからだ。

「俺もお前と同じ香りになるのかもな」

 一緒に暮らしたら。

 きっと。

 香りはうつる。

 いつか、ともに旅をする日まで。

 今は、それが楽しみだった。



終わり

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ