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マイライフイズゴーゴー!

作者: 亞沖青斗

 別になんのことはない、誰にでも起こりうる事故だった。

「貞山じゃないの」と、先に声をかけてきたのは、和風創作居酒屋個室のわざわざ座卓対面を選んで座る、白マスクの古峰音音。

 灰皿を視界から追いやる貞山庸太郎は、地元静岡市で呼ばれた合コンにいずれ自分の学生時代を知る者も現れるだろうと、腹を括ってはいたにしろ、まさか一時里帰りからの開催一発目で起こるとも思っていなかった。

 しかも、目の前で安堵に染まる彼女が同年代で二十五歳のはずなのに、女性メンバー他三人と比較して、どうみても年相応の容姿に見えないとくる。

「あたし、覚えてるでしょ当然」

 おずおずとマスクを外して言うなり、頬を綻ばせる幼い顔。左に一列並ぶ他男性メンバーが「ほう」と興味津々と目を輝かし、他女性メンバーもこの二人を中心に会話が広がる期待もやぶさかに様子を窺っていた。

「ごめん、誰か分かんない」

 理由は無いが庸太郎は素直に認めず、ひとまずのところ誤魔化した。

「うっそ、あんた中学高校んとき、あたしのことばっか見てたじゃん」

「気の所為だよ」

「やあだ、やっぱり覚えてる」

 庸太郎は失言を気にせず、瞼裏で今とほとんど変わらぬ彼女の姿を思い出す。中学生、高校生時代は向こう見ずな発言が目立つ快活の少女で、黒髪のショートヘアスタイルはその間、一貫して変わらなかった。今も同じ。浅黒い肌にくっきりした二重瞼、濃い眉はハワイアンを彷彿させるが、もちろん真冬の今、アロハシャツを着衣しているわけがなくモコモコフリースコーデである。

「いやあ、超とくした。初めての合コンで、超ビビってたんだけど、まさか知り合いがいるとは、こりゃ緊張がほぐれるわ。なあ! 貞山あ」

 掘り炬燵様式であるのに、音音は畳床にいきなり胡座である。

「てか、ガリガリだったのに、大人っぽくなったよね。超変わった。あたしなんか、今でも酒買いにコンビニ行ったら止められんの。てか、貞山なん飲む?」

 あたし白桃チューハイ、とさっそく決定して庸太郎にメニュー表を手渡す。

「車で来たからウーロン茶でいいわ」

 と、押し返した。他の面子も、なに飲みますか、苦手なものありますか、これおいしいですよね、だのと徐々に会話も盛り上がりつつある。店員に全員分の飲み物を注文し、気を取り直した庸太郎だったが、真正面からじっと見てくるどこか不気味な笑顔の音音に、何を言うべきか考えあぐねた。

「おう、貞山なんか言え」

「うん、ネネネと合コンか。なんか変な感じだな。年取ったなって気がするわ。俺だけ」

「お? ケンカ売ってんのか? てか、あたしのこと、ネネネとか言ってたの、アズアズだけだし、なんかくすぐったいな」

 大学生くらいの店員が前菜を運んできて、音音は前のめりになっていた身体をさっと避けた。本日は、地鶏料理をメインにしたコース料理七品と飲み放題プラン。再び、庸太郎へと前のめりになる。

「でさ、今はなにやってんの仕事」

「名古屋のほうで自転車メーカーの営業。そっちは」

「実家のクリーニング屋手伝ってる。静岡県から全然出てない。いいなあ、あたしも県外いきてえわ。そういや、貞山は中学んときから、自立心だけは超強かったよね。なんかそれあったから、覚えてる」

「そうだったかな」

 前菜に箸をつけながら、庸太郎は生返事に終わる。あの頃は、どんな将来を夢見ていたのだろう。古峰音音と、それについて語った過去などあっただろうか。二人は次第に、青春時代の思い出話に盛り上がる。大ジョッキチューハイの二杯目を一気に飲み干した彼女が、ずん、と顔を近づけた。

「なあなあ、あたし! どんな感じだった? やっぱムカついてた?」

「ムカついてはないけど、んー、サバ折りしたろかこのガキ、って何回か思った」

「やべえな! 殺意じゃん! けど、ハグだから半分は愛情だな!」

「なかなか悪くない響きだな」

「お前の愛情とか酔いが醒めるわ!」

 がははは、と音音が隣女子の背中をバシバシ叩く。かたやの清楚系女子は、飲もうとして口に近づけていたグラスジョッキ満杯ウーロン茶を顔面に浴びてむせていた。

「ネネネはそうだなあ、名前忘れたけど、いわゆるマドンナ的な女のこと本当は嫌ってただろう。うざそうにしながらも一緒にいた、あの変な感じがずっと不思議だったんだ。けど、卒業間際で険悪にもなってたよな」

「あたしがアズアズをうざがってたの気づいてたと」にわか、音音の笑顔に寂然とした翳が差す。「アズアズとは喧嘩になってからもう会ってない。若かったからね」

「今も十分若い」

 彼女は、喉を鳴らしてチューハイを仰ぎ飲む。早くも三杯目のグラスジョッキを空にしていた。

「そうじゃなくて、恩恵を得ていたのに跳ねっ返っててさ。それをね、大人になってから思いしらされる」

 突然、くしゃり、と音音の目元が歪み瞳まで揺れだした。

「おい、ちょっと」

 場の空気は不穏となる。まだメインディッシュも届いてないのに、ハイペースで三杯ものチューハイを小柄な身体におさめてしまったのだ。高潮した顔面を判断する限り、アルコール耐性は低い。涙が溢れ出て頬を伝い落ちると見るや、庸太郎はすぐさま立ち上がり、他面子の気まずそうな目線をもかいくぐって、嗚咽まで漏らす音音をいったん店外まで連れ出した。夜間の厳しい冷気が、音音の正気を僅かでも呼び覚ますことに期待した。排気ガス含む巻き風まで、地面から這い上がろうとする。

「あたしは、なんも変われてない」

 大人女性サイズのダウンコートを羽織った彼女は、小さな子供に衣装を着せられた人形のよう。ダッフルコートの庸太郎の袖を、強く鷲掴みにする。

「ああ、なんていうか、思いきったのに、今日ここに来て逆に思い知らされたわ」

 ひとしきり地団駄踏んで、気がすむまで泣いて、ようやく落ち着いた音音は、指しか出ていない自分の袖でグイグイ目元を拭いてから、呆れる庸太郎を睨みあげた。

「懐かしいな」

 その強気な眼。相変わらず突発的な情緒に任せて言動を吐き、あとで後悔する手に負えない跳ねっ返り。そんな性格もあって音音は、容姿は幼く身体も小柄だったため、よく周りの女友達から小動物を扱うように撫で回されて可愛がられていた。なかでも、男子から人気のある女生徒が、音音を特に寵愛してやまなかった。もっとも、音音はそうも尊くはない。

「なに見てんだてめえコラ」

 高校卒業まで三度は同じクラスに配属された庸太郎は、どうしてか理由も分からず音音に目を引き付けられてしまい、その都度、当の音音から罵倒を浴びせられていた。容姿の優れた女生徒が目立つことから、自然と傍らの音音に目がいくだけで、他にも似たような感想を抱く者も少なくなかっただろうに「お前は、言いやすい」という理由だけで。果てには、音音が一人でいるときでも、庸太郎は廊下ですれ違いざまにあからさまな舌打ちを受けたり、睨まれたり、とされていた。だから、ネネネの言う、アズアズとも必然的に会話くらいはする仲にもなった。

 冷静に考察した庸太郎の行き着いた結論が、古峰音音はおそらく現状にとてつもない不満を抱いている、だった。赤らんだ頬も、学生時代と同じ。そこで発案する。

「ネネネ、俺と付き合ってみねえか」


 庸太郎は思い出す。本名こそ忘れたが、アズアズ、と音音が語ったかつてのクラスメイトの女生徒は、確か北海道の大学に進学したはず。合コン終わり、居酒屋からカフェバーに移動した音音と庸太郎の二人は、再び対面席で顔を突き合わせていた。

「卒業アルバムにあったけどよ、ネネネは美容専門学校に行くんじゃなかったか」

「美容師にはなれたけど、辞めた」

 音音は憮然と言った。唇に寄せたカクテル入りグラスを傾ける。

「てか、見過ぎ」

「配慮なくいうのもあれだけど、子供っぽい容姿が関係あるのか」

 臆することなく庸太郎が指摘すると、フリース袖からはみ出た両手で音音は頬を挟んで隠してしまう。「やっぱわかるか」

「辞めるくらいだったのか」

「ムカついたの。なんだかんだ周りに期待してた自分に」

 生まれ持った容姿で特権的立ち回りができる、そんな割り切り思考にならないところを見ると、庸太郎はもとより見抜いていたが、彼女は自身の本質を理解していないらしい。ガラス製の灰皿をさり気なくテーブル脇に退かして、庸太郎は咳払いする。

「学生時代は対等に扱われてないことにムカついてたけど、社会人になったらなったで通用しないから歯痒い、とか」

「誤魔化してたツケが回ってきた感じ」

 二十五歳にもなって、赤裸々に語るそれを打開できないでいる。音音が、子供みたいに鼻をすする。

「そのままズルズルきて、変われないんだよ」

「じゃ、ちょっと対策を考えてみますか」 

「それよりさっきの、考えてもいいんだけど」

「飽くまで私見なんだが、試験的にまずは管理手法に則って策を練ろう。まず、異常の発生状況から考える。これはジレンマだ。適用範囲は、学生時代と社会人時代のギャップ。ネネネの中で、本来あるべき姿、或いは将来ありたい姿と、現状がかけ離れている。これの要因を明確にすべきだ。変わりたい、だけじゃ変われない」

「んなこた分かってんだ」

「次、原因追及。これは学生時代に可愛い容姿を褒められていたからじゃなく、古峰の対応に問題があったのかもしれない。開き直っていたら、世渡り上手になっていたはず。プライドが邪魔してたんだ。今の自分を許せないのもそこ」

「それは、あたしも考えた」

「では、応急対策。実績もないくせに外郭だけは立派な、スッカスカのプライドを打ち破る必要がある。外的要因に対して跳ねっ返るくせして、中身が弱すぎる」

「お前、ほんとはあたしのこと嫌いだろ」

「だから、逆を目指す。これを将来ありたい姿と仮定する。再発防止の材料にもなるだろう。そうなると応急対策方法は、思いきって合コンに来た古峰の方針で合っていると思う」

 跳ねっ返るかと思いきや、褒められた音音は鼻の穴を膨らませて喜色満面とした。

「次は、類似原因の再発防止を考えよう。似たような事例はないかな。たとえば、仕事中にジレンマを感じたとか」

「ある」さっそく音音の表情が転落した。「初見のお客さんとかには、よく頼りなさそうな目で見られた」

「さっきの合コンで俺の顔を見て、緊張がほぐれた、とも言ってたな。もしかしたら、来客対応で多少緊張が出てるんじゃないか。これもつまり、自分の容姿に対するコンプレックス。それが余計に、他者からの態度を悪意的に捉えてしまって被害妄想が増す」

「無表情でグサグサくるわね、あんた」

「これは、整形手術とかじゃどうにもならない問題だ。普通は羨ましがられる。しかし、身体が小さくても、年相応の雰囲気がある女性はいくらでもいる。プライドが高いだけに、美容師を辞めてしまった挫折の過去が悔いなんだろうけど、となると自信が復活していないことが原因かな。けどネネネは、不信を自分の容姿に無理矢理むすびつけようとしてる。これが筋違いなのかもしれない」

「あってるかも。で、どうするの」

 音音は悔しげにも認める。これについては、庸太郎も良い傾向だと感じた。

「ということで、根本原因の再発防止といく。いいかな」

 そこで庸太郎は改めて苦笑する。

「身体を動かして心身を鍛える」

「はあ?」期待もあったようで、聞いた音音は肩を怒らせて唾を飛ばした。「誰でも言える結論じゃん、そんなの。馬鹿らしい」

「理路を踏まえながら確認を何度も繰り返して、原因を辿り、問題を放置していたネネネ自身が、納得した上で行き着いた結論だ。ここまでは反論しなかっただろう。ネネネの特性を明らかにして目的を把握し、対策を確立し、計画する。俺に任せてくれたら、安全対策も設備機器も管理項目も、もちろん異常時の処置も準備できる。うまくいかなかったら、次の方法を提案する。それは、繰り返し実施してデータを取得してからになる。データは、数値、言語、分類、順位の四項目からなるけど、今回は数値と言語の二つに重きをおこう」

 まだ疑わしい目つきの音音へ、庸太郎はポケットから取り出した、タイヤ型のキーホルダーを滑らせた。

 目を瞬かせた音音は、あっさり態度を覆す。「なにこれ、いいじゃん」

「非売品だ。やるよ」


 翌々日の一月三日。静岡市内のとあるレトロ風喫茶店に到着した庸太郎は、待ち合わせ三十分遅れだろうが何食わぬ顔で、小刻みに身体を揺らす彼女の向かいに着席した。さっそく音音が唸る。

「お前な、告白した女を待たすとか考えらんねえぞ」

「まだ保留中だろ」

 今年から煙草はやめたのだったな、と思い出してコートの懐を弄るのはやめる。

「そういう問題じゃねえだろ」と、音音は食い気味に噛みついた。「好かれようとする人間のすることか」

「ちょっと手配に手間取ったんだよ。わざわざ夜明けから愛知に戻って、帰ってきたんだから文句言うな」 

「愛知まで? 年始の休みは、今日までじゃなかったっけ」

「それより、昨日知ったんだけど、元旦の合コンで一組いい感じだった二人が付き合い出したんだってよ」

「マジかあ。なんか羨ましいな」

 その後、会話も少なく軽めの昼食を済ませて、各々の車を駐めている近くの公園駐車場に移動した。指定された「運動しやすい服装」で参上した音音は、ただただジョギングでもさせられる程度にしか思っていなかったようで、庸太郎が所有車のミニバンから二台のロードバイクが取り出した時には流石に意表を衝かれたうえ感嘆の面持ちにもなった。

 音音に貸し与えられたロードバイクは、マットブルーカラーのアルミフレームでエンデュランスバイクのため、アップライトの姿勢にも適している。

「身長が百五十以下の初心者女性でも乗りやすい。会社の上司の奥さんが快く貸してくれた。ディスクブレーキ搭載で二十段変速切り替えができる。二十四万はする代物になるから大事に乗れよ」

「二十四万て、はあ? 自転車で」

「ちなみに俺のも二十万超え」

 音音の戸惑いなど意に介さぬ淡白な調子で、次々と説明をこなして、では早速行こうか、とヘルメットとサングラスまでも手渡す庸太郎が指差す方向は海岸線国道150号線。

「三保松原に行く」

「え? 自転車で? ここから?」

「ロードバイクだ。加速力をなめんなよ。手加減してやるから、俺のケツ見ながら着いてこい。静岡大橋を渡って海岸線を走りゃ、素人でもだいたい一時間半で着く」

 庸太郎はウィンドブレーカーを脱いで、空気抵抗の低い専用の衣服に変わる。天候は悪くない。正午前で薄雲も晴れ、三保松原から沼津方面を眺めれば、見慣れた富士山と青空の境界線もくっきりおがめるだろう。

「ていうか、これ往復だよね」運動不足と本来の運動音痴を懸念して早くも不安気な声を漏らす音音だが、単純なもので高額なるロードバイクに跨り駐車場内で軽い練習を施されただけで「乗り心地すげ」と、感嘆しては庸太郎に「早く行こう」とまで急かすようになった。先導する役割の庸太郎は、バイク用腕時計のタイマーをスタートする。

 自転車自体に最近乗っていなかったらしい音音は、ロードバイクでの交差点乗り降りも慣れて、およそ五百七十メートルの静岡大橋を難なく渡りきり、熟練者である庸太郎のあとをついて海岸線国道150号線まであっさり辿りついた。

 幸い無風に近い。海岸沿い道路は交通量が多く、速度を出す自動車も少なくないので初心者向きとは言い難いが、音音は最初から不安ない運びで庸太郎にぴったり後続して走行していた。

 しかし、体力不足もあって次第に距離が離れていく。併せて庸太郎も速度を調整した。プライドだけは強い音音がそれに奮起し、また加速する。信号が変わりそうなら、先導する庸太郎が減速の合図を出す。

「休憩するか?」

「めっちゃ楽しい。大丈夫!」

 赤信号に並んでの停車時、赤らんだ顔で興奮気味に音音が返す様はなかなか頼もしい、と庸太郎もそう思えたが、かなりアドレナリンに支配されている不安定状態とも思えた。

「もっとスピード出してもいいよ」

「風の抵抗も強いだろう。初めてだから慌てるなよ」

 前方右側は太平洋で穏やかな海原が広がる。中天からの日差しも暖かな気温を生み、それが燃料となり更に漕ぐペダルを推進させた。

 それから一時間後、目的の三保松原の駐車場へと到着した。その頃には、流石の音音も肩で息して疲労を見せる。多くの観光客と松林を抜け、二人で海岸へと向かった。砂浜から砂利敷きの波打ち際まで行くと、言わずもがな遠くの富士山がうかがえる。頂きに滞留する白い雲が、まるで真綿の鍔付きハットのよう。

 ショートヘアが汗で顔面に張り付く音音は、それでも晴れ晴れしい笑顔となる。

「すげえな、富士山! いやいや、控えめに言っていつもと眺めが全然違うわあ。なんか、褒められてる気がする」

「そうだな」庸太郎も目を細める。

「あんたあれだね、ほんと無感情だよね」

「やっぱ、そう見えるか」

「そうね。控えめに言って、あたしとは正反対だわ。感情が全然つたわってこない」音音は、富士山から目を離さず言う。「付き合ってもあわなさそう」

「まあ、そうかもな。じゃ、そろそろ帰るか」

「え、もう?」

「富士山自体は、別にいつでも見える。ここを選んだのは、目標地として切りが良かっただけだよ」

 少しの休憩後、なんか物足りねえ、と文句を漏らす音音を従え、再びスタート地点の公園駐車場にとってかえした。帰りは海側ガードレール脇の走行とあって充分注意した。そして、トラブルなく無事に到着する。二台のロードバイクをミニバンに載せて帰り支度も終えた庸太郎は、疲労も蓄積して両膝に手をつく音音に近づいていった。

「あんまり気にしなくてもいいけど、行きに比べたら、帰りはタイム的に五分以上は落ちてる。距離数と心拍数も計ってりゃ、これも数値データになる。今後も続けるならこれが指標になるだろうな」

 淡々と続ける。

「これで、古峰の問題が打破できたわけじゃないけど、自転車じゃなくても趣味で能力を伸ばすだの、あと、他人からの評価に左右されない数値データで目に視える効果があったりすると、モチベーション的に随分と変わってくるもんだよ。つまり、今までの古峰の不満は、数値化できない言語データだったんだ。なんとなく、どうしたらいいのか分からない。これ全てが改善されるわけじゃないけど、伸び代があるコンテンツを見つけて、この方法に併せることで何かしら内側から変化していく、かもしれない」

「そうか、言語データね。でも、数値化できないこともあるよね」

 湿る前髪をかき上げた音音は、納得した面持ちで何度か頷いてから、少し顔を顰めて言った。

「たとえば、あんた、あたしのこと別に好きじゃないよね」

 そうだ、と庸太郎は平然と即答する。

「今まで誰も好きになったことがない」

「ほう」音音の眉間に力が入る。「じゃあ、貞山は、なんで合コンに行ったのか。なんで好きでもないのに、あたしに、付き合おうって言ったのか」

「嗅覚みたいなもんだよ。古峰が俺と似てると思った。似てるけど、気質は正反対」

「それって、もしかしてあんたも殻を破ろうとしてたんじゃないの。だから、あれだけ次々と対策を言えた。本当は、自分にそうしたかったんじゃないの。要するにあの合コン参加は、応急対策?」

「御名答だ。そこに古峰が来た。奇跡的だろ。古峰は、俺が理解できない人種の象徴なんだよ。俺と同じあの頃から変わらないまま。性格は対照的なのに、変わろうとしてジレンマを感じてるところまで。なら、類似原因への対策になると思った」

「でも、やっぱりこんな理由で、交際を申し込むのは失礼だろ」

「認める。そういうところも配慮がないんだよ俺は。だから、独りで自転車すんのは楽でいい。なにも考えなくていい。けど、最近自転車が面白くないんだ。自転車が好きで仕事まで選んだのに、それが悔しくてな。他人に魅力や楽しさを伝えたかったのかも」

 音音は押し黙っていた。その様子に気づいて、独白気味となっていた庸太郎は我に返り苦笑する。

「俺なりの総括。ロードバイクは、開発された1900年頃からほとんど原型は変わっていない。自転車自体の歴史となったら、1879年にイギリスで発明した前後ギアをチェーンで結ぶ駆動方式が今のローバー型として、今も廃れず普及してる。でも、大勢の経験や技術で改善されて、進化はまだまだ続いてる。古峰も無理に変わろうとせず、そういう気構えでいいんだよ。だからまた合コンに行け」

「ねえ、哀しそうな顔してる。それ、こっちに伝わってるよ」

「今日は久しぶりに楽しかった。ありがとうな」

 鼻白む音音に背を向けた庸太郎は、自分のミニバンに乗り込むと「ちょっと待ってよ」との呼びかけも無視して、その足で名古屋の自宅へと寄り道もせず真っ直ぐ帰っていった。

「誰にも理解されない悩みだってことは、本人にも自覚はある。開き直っちまってもいい些細なことだ。そうだろ」

 独りごちる庸太郎は、静岡IC入口へとハンドルを切っていく。懐をまさぐっても煙草は一本も無い。しかし、気落ちもしていなければ、哀しいなどとも思ってはいない。ただ、諦めに近い小さな時限爆弾を、はるか昔から腹の奥に抱えたまま大人になってしまった。根本原因はなんだろう。

 富士山を背にして高速道路を走る。

「まあいいや、また風になれる気がする」


 コンテナ型賃貸ガレージハウスのロマン物件は、特に独身男性からの強い人気もあって競争率が高い。庸太郎が契約に漕ぎ着けることができたのも、奇跡的に運が味方しただけ。一階がまるまるガレージ、二階が約十三畳のLDKは、独り暮らしに充分の間取りである。

 日も暮れた夏の生ぬるい風が顔を撫でる。仕事終わりにあおる生ビールが肺腑に染み渡る。そんな庸太郎が、ミニバンの全開にしたハッチから眺める先は、ペンダントライトに照らされる惚れ惚れとするガレージの中。ロードバイク三台が立てかけられ、修理や改良に重宝する作業台もあり、工具類は勿論、コレクションの意味合いも強い交換パーツが壁棚に犇めく。

 そこに、自転車の走行音が聴こえてきた。

「おい、貞山! 十二時間もかけてここまで、ロードバイクで来てやったぞ! これで変わってないとか、進化してないとか言わせないからな! てか、すげえなガレージ。こんなの、独りぼっちで使わないで、あたしと活用すべきだろう!」

 意気揚々とロードバイクに乗って登場するそんな二十五歳の古峰音音と再会する夢を、この五年間、幾度みたことか。

 三十となった独り暮らしの今も、特に後悔はなかった。

 風の噂では、古峰音音は高校時代のクラスメイトだったかつての男子生徒と再会したことから、交際に発展し、今は結婚もして子供もいるらしい。劣等感を打開できたならより素晴らしい。そう簡単に克服できず、恋人に悩みを打ち明け、補填してもらえたならそれもまた僥倖。

「まあ、俺にはちと荷が重かったらしい」

 ただし、未練たらしい夢を見るくらいには、執心していたのかもしれない。だから、無駄でもなければ敗北でもない。自転車への熱意もあれから復活したわけでもあるし、良い方向に傾いたといえるだろう。

「おお?」

「ん?」

 甲高い声に驚いて振り向いた先には、隣接する棟に最近引っ越してきたらしい線の細いビジネススーツ姿の女性が、自転車で帰宅したところだった。ほろ酔いで目元の霞む庸太郎は、訝しげに凝視してくる女から目を逸らす。

「貞山くんよね。わたし、覚えてない?」

「あ?」

 名を当てられた庸太郎は、今度こそしかと直視した。長身に似合う真っ直ぐの黒髪で、はにかむ表情となる彼女──その気立ての良さそうな繊細な容貌。

「あ、アズアズだ」

 それまで緊張気味だった彼女は途端に、わはは、と破顔した。

「それ言ってたのネネネだけだし」

「そうだっけか」

「あーいいな、ビール」

「飲む? 再会を祝して」

「わーい、いただくー!」

 トランクに積んだ小振りなクーラーボックスから缶ビールを受け取った彼女は、プルトップに引っ掛けた指先で勢いよく空けると舌なめずりして一気に飲み干してしまう。

「うますぎだ!」

 ぶはぁっ、と豪快な吐息を放出し「良かったねえ」と、鼻を鳴らす庸太郎の隣に腰を下ろしてしまう。

「ていうか、ガレージの中すごいね。ちょっとじっくり見せてよ。ちなみに、わたしもクロスバイクやってんの」

「ええ、マジ? そんなのしてたっけ?」

「マジマジ、ムカつくことあった後に、良いこともあって、それで始めたの。半年くらい前から。いま、超はまってる。なんか、救われたって感じ」

「マジかあ、そんなら、俺と付き合わない?」

「いいよ、でもいいのかな。バツイチだよ」

「かまへんかまへん。でもいいのかな。童貞だよ」

「かまへんかまへん」

 うわははっ、と二人で同時に大笑いする。そして、彼女は近所迷惑も構わず叫んだ。

「この奇跡は、巡り合ったわたしたち自転車狂が最強という証拠で、裏切られて、どん底で死にかけてたのに、引っ越して、なのに、とうとうわたしに訪れた再起の光がクール系男子なんて、もう泣きそうだぜっ、ベイッベー!」

「はっ、なにが奇跡だ」

 何故なら、彼女の自転車のハンドルには、非売品のタイヤ型キーホルダーがぶら下がっていたのだから。

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