一、星
月の見えない夜だった。
日中より雲が江戸の空を覆い、いつもより夜が、闇が早く訪れたその日。
大工の五郎は帰路を急いでいた。
棒手振りの佐太は帰路を急いでいた。
住処である長屋までそれほどの距離ではない。
木戸が閉まるまでまだ刻もあれば、人通りは無いが皆無という訳でもない。
五郎のように。
佐太のように。
たまたま帰りが遅くなって家路を急ぐ者は他にも。
しかし皆、一様に足早に、急き立てられて、あるいは追われているかのように焦っている。すれ違う他人の影にはお互いに距離をとりながら。
そして安全な家の中へ滑り込みほっと息をつく。それがどんなあばら屋であろうとも、宵闇に潜む危険からは逃れられたのだから。
進む道の先に人がいるような気がして、五郎は大工道具の箱を抱きしめ歩く速度を弛めた。
足早に歩く自分の後ろに、少し前から同じ速度で誰かがついて来ている気がして仕方がなかった佐太は、少し走ってみて振り返り、気のせいだったかとまた歩きはじめた。
いまだ闇は深く。
乱世を望む者どもがまた、さらなる闇を振り撒いていた。
朝、口入屋へと向かう蓮志の足は人集りで阻まれていた。
(またか)
前方の人集りに舌打ちしたくなる。
人集りの理由は想像がついていた。
ここのところ頻発する事件には蓮志も迷惑を被っていたのだ。
今も、人集りから離脱する者が蓮志を見て顔をしかめたり必要以上に離れて歩いていったりしている。
今日はもう仕事にはならないかもしれない。
そう思うが、自分が悪いことをしたわけでもなし、何にはばかる事もないのだから堂々としていればいい。仕事がなくてもいつものように口入屋には顔を出す。
大体、このようなときにいつもと違うことをすれば「やはりあいつが……」などと言われかねないのだ。
堂々としているのにかぎる。
いまだ新しい木の香りがする屋敷の奥で灯里はつぶやいた。
「幸兄さまが次にいらっしゃるのはいつかしら……」
今はこうしてとてもよい暮らしをさせてもらっているが、なにせ灯里の周囲には極端に人が少ない。
急ぎ伝えたいことがあっても、言伝てを頼むことすらままならないのは困ったことだった。
なにせ、灯里が自ら表に伝えに行くわけにもいかないのだから。
しかし灯里が思案していると、ちょうど良いことに女中が昼の膳を運んで来た。
もうそんな時間なのかと思うと共に、都合よく来てくれた女中に言伝てを頼むことにする。
他家と同じくこの屋敷には女中が少ない。特にこの屋敷にはこの女中ともう一人いるだけだった。
昼の膳を運んで来た今、ついでに朝の膳を下げているように次は夕餉まで灯里の部屋には誰も訪れない可能性は高い。
「千恵。幸松さまに文を届けて欲しいのだけれど」
いつものように無言で部屋の入り口に膳を置いた女中に声をかけるが、そのまま襖を閉めようとしている気配がして、灯里はあわてて膝を擦って女中の近くまで行き文を差し出す。
「忙しいところ申し訳ないわね」
灯里がそう言うと、女中はしばらく逡巡してから灯里の手から文を引ったくり、鼻息を荒げて、しかし無言で去って行った。
スパンッと乱暴に閉められて隙間の開いた襖を微調整する灯里には、朝の膳を持って下がる女中がブツブツ言う文句は聞こえないが、ほぼ正確に予想できていた。
「フン、なにが姫さまだい。ただの化け物じゃないか」