序
江戸は焦土と化していた。
権現さま入府より70年近く。
絶え間ない発展を見せてきた江戸の町は、三日の間火炙りにされ炭と成り果てた。
幸松が向かう先も建物はほとんど残っておらず、もはや歩む道が本来道であったのか屋敷の敷地であったのかすら曖昧だった。
ただ、焼け野原となった町人地に比べここ武家地では、土塀や土蔵らしき瓦礫が散見しているのに加え、死体が転がっていない。早々に片付けられたか、そもそもの犠牲者の数が少ないのか……。
本日出火より四日目。
最初の出火より連日もたらされていた更なる出火の報も昨日はなく、大火を生き延びた者たちもようやく完全に鎮火したようだと落ち着いて炊き出しにありつけていることだろうか。
(ーーーいや、)
いっそう強く吹き付けてくる冷たい風に、幸松は懐から手ぬぐいを取り出し首元に巻き付けた。己の懐で温まった手ぬぐいにほっとするも一瞬のことで、手ぬぐいはすぐに冷えてしまった。
幸松は空を振り仰いだ。
先程からちらついていた雪が確実に増えてきている。見渡す限りの空を厚く覆う雪雲に、本格的に吹雪くやもと顔をしかめた。
(このままでは今日にでも凍死するものが出てしまう)
保科さまが陣頭に立ち、お上の蔵を開け、各所で炊き出しや仮設の小屋を建ててはいるが、町人のみならず、寺も武家地も焼けてしまった。そう、あの巨大な城までも焼け落ちてしまったのだ。
役人も被災したし、このような有事の際に頼りになる古くからの町の有力者も焼け出されているだろう。とても、一日やそこらでなんとかなるものではない。
であれば、微力であろうとも己も復興に携わるべきだとは思うが、幸松には密命があった。
幸松の主人は鎮火の報が届くかの内に各地に手下を飛ばし、情報統制を図ったが、幸松には別に特命を与えたのだ。
(この辺りか)
それらしき屋敷の瓦礫の奥、焼け残った土蔵が煤にまみれながらもぽつんと建っている。
『我が家は、問題、ございませ……、が、末期、養子を、揺るうして、よう、ござい……した、な……。……す、が、我が、友。すばらし、施策で、ござ……、な……』
『……世辞はいらん。心配せずとも其方の後継も家門も問題はない。御隠居も健在だ。問題は其方だけだ』
天守、本丸共に焼け落ち、西の丸に陣を敷き各々対応に追われる中、少なくない数の大名家の被災状況も都度報告されていた。
その中に旧知の名を聞くと、幸松の主人は多忙の中駆け付けた。動かせる状態ではないと聞き、無理を押して見舞ったその人は息も絶え絶えにふざけてみせた。
全身焼け爛れているのだろう、さらしまみれにされているが覆いきれずに火傷が覗いているし、さらしに覆われているところもいたるところで血が滲んでいる。
主人の伴で付き従う幸松も、ここに通される前に家中の者が「もう長くは持たない」と言うのを聞いている。お医師はすでに辞し、他を飛び回っているという。奥方はそもそも逃げ出すことが出来なかったらしい。
己がもう長くないと知っているのだろう。気掛かりの跡目もここはきちんと後継がいるので心配ないはずだが、言わずにはいられないのだろう。幕閣の重鎮たる幸松の主人に後ろ楯となってもらえれば家門は安泰だろうが、友を利用することはしたくない。だがしかしーー。
主人の後ろで控える幸松はこの御方の心情をそのように推察したのだが、驚いたことに本当にただの軽口であったらしい。
本当の末期の願いは別にあったのだからーー。
『なにとぞ、御、頼み、し……す。……あの娘を……』
目当ての蔵の扉に手をかけようとした瞬間、幸松は飛び退いた。
直後、ガラガラと音を立てて焼けた瓦や土壁が降ってきた。
幸松の血の気が引いた。
ぎりぎりで崩落を回避したことにではない。
この蔵の中にいるであろう人物を案じたためである。
(一歩、間に合わなかったか!?)
なんということか、目の前で崩落するなどーー。とも、なぜもっと早く辿り着かなかったのか! とも。己を罵りながら必死に瓦礫を掻き分ける幸松の目が、瓦礫の奥に赤く光るそれを見つけた。