未来の私への手紙
真夏の昼下がり。
外はジリジリと陽が照りつけ、今日も猛暑日だった。
クーラーの効いた部屋で遅い昼食を済ませ、またベッドに潜り込む。
お盆休みだというのに杏奈は実家にも帰らずダラダラ過ごしていた。
実家に帰れば必ず話題は結婚の事に触れる。
「結婚はまだなの?お母さんは早く孫の顔が見たいのよ。」
責めるような目で杏奈を見る母親の表情が浮かぶ。
杏奈は今年で32歳。
しかし、男の気配などまったく感じさせない生活であった。
杏奈本人はそれで満足であった。
自分のやりたい仕事を何にも邪魔されずに専念できる。
男など煩わしいだけだと思った。
テレビをつけたまま少しウトウトとした時、
「カタン」とポストに郵便物が届いた音が聞こえた。
どうせダイレクトメールだろうと、あまり気にすることもなく眠りに落ちた。
再び目覚めたのは17時前だった。
夕方と呼ばれる時間帯だがまだまだ陽は高かった。
乾いた喉を潤すために冷蔵庫に向かう。
冷たい麦茶を飲みながら杏奈はポストを確認した。
二通のダイレクトメールともう一通、どこかで見たような封筒がそこにあった。
「あっ!」
杏奈はそこに書かれた字に見覚えがあった。
それは間違いなく杏奈本人が書いた物だった。
10年前。杏奈が大学を卒業して初めての夏。
その頃、杏奈にも恋人がいた。
同じ高校で二年生の頃から付き合っていたので6年になる。
彼の名は省吾。
省吾は大学を卒業後、東京の会社に就職。
遠距離恋愛となった二人は、お盆で省吾が帰省した時に、省吾の実家近くの神社の夏祭りに一緒に行った。
そこで奇妙な出店を見つけた。
「未来への手紙」
そこは時間と共に忘れてしまいがちな今の気持ちを、未来の自分に届ける、といった趣旨の物だった。
省吾は
「胡散臭い」と拒否反応をしめしたが、杏奈が無理やり一緒に書かせたのだった。
その日のデートが二人が会った最後の日だった。
お互い社会人一年目の新人で時間に余裕もなく、少しずつ電話の回数も減り、省吾は正月も帰って来なかった。
そして別れ話が交わされる事もなく、いつの間にか二人の関係はなくなっていった。
杏奈はすっかり忘れていたが、その手紙が今日届いたのだ。
杏奈はもう何年も省吾の事は思い出した事がない。
と言うよりは思い出さないようにしてたと言ったほうがいいかもしれない。
「そっか、あれから10年か…。」
どんな事を書いたのか、杏奈は覚えていなかった。
杏奈はベッドに腰をかけ、封筒の封を切った。
「今日は久々の省吾とデート。浴衣まで着て気合い入れた!
東京の人になってたらどうしようとか思ったけど、俺は何も変わらんよって言ってた通り全然変わってない。
人混みではちゃんと肩を抱いて守ってくれるし、トイレに行く時以外はずっと手を握っててくれる。
さすがに私が選んだ男だな。
今は離れた所で暮らしているけど、いつかぜーったいに一緒になるもん!
これを読む時はきっと二人並んで懐かしんでるんだろうね?
私は省吾が死ぬほど好き!省吾も私が絶対好き!
でも省吾はまだ一回も愛してるって言ってくれてないのよね。だからこの手紙が届くまでの私の目標は省吾に愛してるって言わせる事!
私の魅力をもってすれば楽勝かな?
強気な事ばっかり書いたけど、やっぱり不安もあるよ?
遠距離で会えない寂しさに負けないかな?とかね。
でもね、未来の私!
私の幸せは省吾がいて成り立つもの!だから省吾を離しちゃダメよ!
そんじゃ、幸せにね!」
読み終えた杏奈の頬には涙が光っていた。
杏奈にはわかっていた。自分が心から省吾を愛していた事を。
徐々に連絡が減った時も
「別れよう」と言われるのが怖くて自分から電話をかけられなくなった。
それを自分で納得させるために仕事に打ち込んだ。
そして、私は一人で好きな事をできて幸せだと思い込もうとしていた。
とめどなく流れる涙を拭わず
「どうして、どうしてこんな手紙書いたのよ。」
自分の気持ちをごまかし生きてきたのに、それを思い出させた過去の自分を恨んだ。
しばらく泣いた後、杏奈は急に立ち上がった。
シャワーを浴び、着替えて外に出た。
ようやく暗くなり始めた道を10年前の神社へと向かった。
神社は多くの人で賑わっていた。
その人混みをかき分けるように杏奈は10年前の出店を探した。
杏奈の記憶の中の同じ場所にその店はあった。
杏奈はまた手紙を書き始めた。
「今、私の側に省吾はいません。いえ、今だけじゃなくこれからもずっと。
でも、もう自分をごまかすのはやめました。
私は今でも省吾を愛してます。
これから先もずっと。
愛して愛されるのが一番の幸せ。
しかし、たとえ愛されてなくても自分が愛した人がいるというのも幸せだと気付きました。
ただの自己満足かもしれません。
それでもやっぱり私は省吾を愛していたあの頃の自分が好き。
一番自分らしく輝いていたあの頃の自分を取り戻します。
この手紙を読む10年後の私は、きっと笑顔で読めるでしょう。」
帰ろうと神社の出口に向かった杏奈の目にチョコバナナの店が見えた。
「10年前は一緒に食べたな。」
思い出しながら一つ買った。
裏手の木の根っこに腰を下ろし懐かしみながら食べた。
そういえば杏奈のほっぺたについたチョコを省吾が優しいキスで拭ってくれた。
また涙が溢れそうになる。
「杏、ほっぺにチョコついてるぞ。」
杏奈は10年前にタイムスリップしたかのような錯覚におちいった。
振り向くとそこには省吾がいた。
「全然かわらんな。」
昔と同じ笑顔で笑いかける。
「省吾?」
杏奈は目を何度も何度もこすった。
「おいおい、マスカラ落ちるぞ?」
杏奈は食べかけのチョコバナナを放り出し省吾に抱きついた。
言葉はなかった。
泣いても泣いても涙が枯れる事もなかった。
神社を出て二人で無言で歩いた。
人気のない川べりに並んで腰を下ろす。
目の前の川を眺めながら沈黙が続いた。
「ごめんな。」
省吾が沈黙をやぶった。
「何を謝るの?」
「連絡しなくなった事。」
「…。」
再び沈黙が訪れる。
「俺な、病気だった。東京に行った年の冬前から体調がおかしいと感じた。
何度か医者に行ったけど、別に異常はないと言われた。
環境が変わって精神的に疲れてるんだろう。医者の診察はそんな感じだった。
そして、12月に入ってすぐに倒れた。
大きな設備のしっかりした病院で精密検査を受けると、脳に腫瘍があると言われた。
悪性で手術は不可能だと。」
杏奈は心配そうな目で省吾を見ている。
「早ければ2年。長くても5年もてばいいほうだと。
俺は自分の死より、杏が泣くのが辛かった。
そして杏の前から消えようと決めた。
杏にとってはその方がいいと思ったんだ。」
そこまで話して省吾は大きく息をついた。
「それから俺は秋田の山奥の田舎に住み着いた。
誰も知る人のいない所でひっそり残りを生きようと思った。
その秋田でも何度も倒れた。
もうダメかと思った時、いつも杏が目の前に現れて『死なないで』と涙目に訴えるんだ。
俺は生きた。時には脳が激しく痛み発狂しそうになるのも耐えた。
もし生き残れるならもう一度杏に会おうと。
会いたい一心で俺はどんな痛みにも耐えた。7年が過ぎ、8年が過ぎ、それでも俺はまだ生きていた。
そして、再び病院で検査を受けると腫瘍が小さくなっていると言われた。
もしかすると助かるかも知れないと。
それから2年、俺はそれまでと同じ生活を続けた。
どんな影響があったのかはわからないがその生活の中で腫瘍が小さくなったのかも知れないと思ったからだ。
そして、今月初め。もう一度検査を受けた。」
省吾は杏奈の目を真っ直ぐ見た。
「腫瘍は…消えていた。」
杏奈の瞳からまた大粒の涙が溢れた。
「俺も泣いたよ。自分の命が助かったなんてどうでもよかった。
これで杏を悲しませる事なく杏に会える嬉しさで泣いた。」
「私がもう結婚してるとか思わなかったの?」
泣いているので途切れ途切れになった言葉できいた。
「何故か杏は一人だと思った。
俺が倒れた時、頭の中の杏が、『私を残して死ぬの?私は待ってるから元気になって迎えに来て!』そう言った気がしたから。
黙っていなくなって身勝手だと思ったけど、それでも杏は待っていると感じたんだ。」
「私ね、省吾を忘れようとしたよ?忘れたつもりだった。
でも、でも、やっぱり省吾を愛してるの。10年前からの手紙でそれを思い知らされたの。」
「10年前の手紙。ここにある。」
省吾の実家に届いていたのを神社に行く前に取ってきていたのだった。
「省吾はなんて書いたの?」
省吾は黙って封筒を杏奈に渡した。
「読んでいいの?」
黙って頷く省吾。
封を切り中を見るとそこには短い文で、
「杏、永遠に愛してる。」
10年前に杏奈が望んだ言葉が10年前の杏奈のすぐ横で書かれていたのだ。
杏奈はもう生涯涙が出なくてもいいと思えるくらい泣いた。
完