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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

大海を知らず

作者: 村上 唐子

 少し迷惑だけれど、嫌だと思わないことが不思議だった。


 教室に吹き込む風が生暖かくなってきた五月。新しいクラスになってから初めての席替えがあった。私は教室の一番端、窓際の一番後ろの席になった。少し度の合っていない眼鏡では、黒板の文字が少し霞んで見えにくいのが欠点だけれど、教室の中の離れみたいで、落ち着く気がしていた。ある一点を除くと。

 右隣の机が動く音がして、またか、と思った。

「今日〝も〟ですか?」

 隣にだけ聞こえる声で言うと、隣の席の人が「悪い悪い」と言いながら机をくっつけてきた。聞こえるように溜め息をついて、教科書を広げてあげた。廊下から吹いてきた風に、隣の少女のつけている香水の匂いが香った。込み上げてくる感情を、顔をしかめることで我慢した。

 教室には抑揚のない先生の声だけが響いていた。暖かい風と日差しで眠くなりそうになるのを堪えながら、少し見えにくい黒板の文字をノートに写していた。ふと気になって隣の席を見ると、少女は意外にも起きていて、端正な字でノートを書いていた。真面目にノートはとる癖に、教科書は毎日忘れてくるのかと思ったら、隣の少女に少し興味が湧いてきた。

 ノートの一番最後のページの端を切り取って、

『毎日教科書を忘れてくるのはなぜ?』

と書いて折り畳み、少女の視界に入るように紙を置いた。少女は紙に気づいたようで、書く手を止めると、紙を開いた。様子が気になったが、何食わぬ態度をとりたかったので、わざと少女の方ではなく黒板を見つめた。しばらく考え込むみたいに隣からの音が止んでいたが、カリカリとシャーペンの刻む音がした。机の隅に紙が置かれたのを視界の片隅で捉えて、そちらを見ないで紙を拾った。好奇心がうずうずしているのを抑えながら、破かないように紙を開いた。

『仲良くなりたいから?』

 訳が分からない。訳が分からなくて、隣の少女を見たら、にやっと笑っていた。カッとする気持ちが湧いてきて、そのままの気持ちで

『訳が分からない』

と書いて、隣の席に放り投げた。授業中に大胆な行動をしてしまい、しまったと先生の方をちらりと見たが、先生は教科書を読み上げるのに夢中で、教室の片隅のことなど気付いてもいない様子だった。

 何て返ってくるのか。

 少し期待をしていたが、その日の授業が終わっても紙は返ってこなかった。


 月曜日。

 今日は水分を多く含んで灰色になった雲に覆われた、どんよりとした天気だった。月曜日の憂鬱さと、重苦しい天気のせいで、登校する生徒たちもどこか暗い雰囲気が漂っていた。

 私も例に漏れず、肩にかけた鞄の重さが余計に重く感じていた。

 教室に着くと重かった鞄をようやく下ろせて、ふうと一息ついた。今日の授業の教科書を机に入れて、鞄から本を取り出した。透明なカバーを付けられた図書室の文庫本は、湿気の多い空気を吸ったためか、少し膨らんでいた。しおりを本の後ろに挟むと、授業が始まるまでの短い時間だけれど本の世界に没入した。

 朝礼が始まる直前、滑り込むように隣の席の少女が教室に入ってきた。その直後、先生が来て、朝礼が始まった。

 1限目は数学だ。理系科目でも特に数学は苦手なので、集中して授業を聞いていないとすぐに分からなくなる。机から教科書を取り出して、筆箱も出そうとしたら、いつも入れているところに無かった。机の中を覗いても、教科書の後ろに追いやられているということもなく、筆箱を持ってくること自体を忘れてしまったみたいだった。思い返せば、昨晩宿題をやった時に鞄にしまい忘れたことに気がついた。忘れ物をしたショックを受けながら、授業が始まる前に気がついていれば、誰かから借りられたかもしれないのに、何で教科書を机にしまった時に気がつかなかったのかと思ったけれど、授業が始まった今、どうしようも出来ない。

 先生が黒板に数式を書きはじめて、焦りはどんどん増すばかりだった。

「筆箱、忘れたの?」

 突然、隣の少女が聞こえるか聞こえないか位の声で話しかけてきた。

「う、うん……」

「いいよ、これ使って」

 そう言うと隣の少女は、シャーペンと消しゴム、三色ボールペンを渡してきた。

「あ、ありがとう……」

 藁にもすがる思いだったので素直に受け取ると、隣の少女は破顔した。

「でも、あなたのはあるの?」

「私はシャーペンしか使わないから、気にしないでいいよ」

 少女は手に持ったシャーペンを左右に振ると、黒板に向き直った。つられて黒板の方を見ると、かなり書き進んでいた。急いで黒板の内容をノートに写し始めながら、シャーペンしか使わないのに何で三色ボールペンまで持っているのかと疑問に思ったが、写すのに集中していたらいつの間にか忘れていた。

 放課後。

 ホームルームが終わった瞬間に返そうと思っていたら、話しかける間も無く少女は教室から去ってしまった。何か急ぎの用事があったのかもしれないと思いながら、明日返すほうがハードルが高くなってしまったなと思ったが、帰ってしまったのは仕方がない。机の上に置いておくのも考えたけれど、それは失礼だと思い直し、明日返すしかないか……と諦めて、図書室に向かうことにした。

 図書室で今日読み終わった文庫本を返し、続きの小説を借りることにした。気になった小説は片っ端から読むタイプで、今はとある作者のシリーズを読んでいるところだった。棚から小説を抜き取ろうと手を伸ばして、今日返した本の1つ前の本が借りられていることに気がついた。個人的に面白い小説を書く作者だと思っていたが、高校生がよく読むタイプではないので、私以外にも珍しい人がいるのだと思った。シリーズの途中の巻だったので、私が読んだ直前まで読んでいるのか気になって、シリーズの最初の巻を開いた。一番後ろのページに貸出期限の印を押す紙が貼られているので、それを追っていけば順調に読んでいるかが分かるかもしれない。

 貸出期限を見ると、1巻は私が読んだ2週間後になっていた。2巻は1巻の10日後、3巻は8日後、4巻は5日後になっていた。徐々に読むペースが上がっているなと思いながら、同じ小説を読んだ生徒がいることに嬉しくなっていた。もしかしたら同じ学年かもしれないし、もしかしたら同じクラスかもしれない。

「いや、同じクラスはあり得ないでしょう」

学校全体で12クラスもあるのに、そんな確率は流石に起こらないだろう。上がっていたテンションを鎮めるように、冷静な自分が指摘した。テンションの高い自分が心の中で乾いた笑い声を上げて、何でもないかのように振る舞った。

 そろそろ帰ろうと立ち上がろうとしたら、棚の近くに座り込んでいたので、脚が痺れてしまっていた。じんわり血が巡りだした脚の痺れを感じながら、借りる本を持ってカウンターにゆっくり歩いて行った。


 窓の外の空をゆっくり雲が流れるのを、世界史の先生のおっとりとした声を聞きながら眺めていた。この授業が終われば放課後だった。早く放課後にならないかなと、いつまでも進まない時計をたまに見ながら、ぼんやりと思っていた。

 あの日、借りたシャーペンたちは返しそびれてしまい、今日も机の奥底にあった。借りっぱなしはしたくない、と思いながら、何も言ってこないならこのまま借りていても、という相反する気持ちがぐるぐると回っていた。

 隣の席の少女は今も毎日教科書を忘れていて、私は毎日教科書を見せていた。見せるタイミングに返せばいいのだけれど、借りた次の日にまた返しそびれてしまい、完全にタイミングを失ってしまっていた。やってしまったと後悔をしているけれど、返すタイミングを逃した今、何かきっかけが来ないかと神頼み状態になっている。

 シャーペンしか使わないと言っていた少女は、本当にシャーペンしか使っていなかった。授業中にバレないように観察していて分かったが、どうやら黒板の色付きのチョークを使った部分には下線を引いているようだった。見返して分かるのかなと思ったけれど、整った字に真っ直ぐ引かれた下線を見たら、そんなことを思うのは失礼だと思った。

 観察して分かったことだけれど、隣の少女は学内でも珍しく明るい茶色の髪色で、ふんわりと香水をつけており、指定のリボンを着けずに開けられたシャツの下にネックレスを着けていた。偏差値も低くはない女子校なので、彼女のような生徒は珍しかったけれど、クラスメイトと屈託無く話す様子を見るに、浮いているわけでもなく、ある程度溶け込んでいるように見えた。でも、毎日放課後になるとすぐに教室を出て行き、クラスの誰かと一緒に帰っているわけではなさそうだった。別のクラスの生徒だったら分からないけれど、少女が誰かと一緒に帰っているのを想像したら、少し変な気持ちになった。変な気持ちの正体は、深く考えないことにした。

 そんなことを考えていたら、いつの間にか授業が終わっていた。世界史の先生と入れ替わるように、クラスの担任が入ってきた。

 ホームルームが終わると、いつものように隣の少女はすぐに教室を去り、私は図書室に向かった。今日で全15巻あったシリーズも読み終わる。追いかけるように読んでいる生徒のためにも、読み終わった本はすぐに返そう。教科書を机から引き出した拍子にカタンと音がした。机の奥に入れている借りっぱなしの筆記具が動いたのだろう。しこりのようにわだかまっているモヤモヤを感じながら、音に気づかない振りをした。また返しそびれてしまったと、黒板の日付を見て、焦りが込み上げてきた。

 五月が、終わる。


 大人になると一日が早く過ぎ去っていくというけれど、私の5月はあっという間に過ぎてしまった。5月がこれだけ早く終わってしまうとなると、大人になったらどれだけ早く日々が終わっていくのか。それを考えると少し気持ちが重たくなった。……ついでに、机の中の借りたままになっているシャーペンたちを思い出して、またさらに憂鬱になった。

 でも、今日は席替えがあるから、席が離れてしまう前に返してしまいたい。席が離れてしまったら余計返すのが難しくなる。今日こそ返して、この憂鬱な気持ちと毎日教科書を見せている少女から解放されるのだと決心した。

 ――したのだが、結局返せなかった。

 席のくじを引いて、私はまた後ろの方に、少女は教室の入り口近くの前の方になったことが分かり、今日返さなければ逃してしまうと思っていたのに、隣の少女はクラスメイトと話し続けていて会話が途切れることがなく、机を移動する時もさっさと移動してしまった。遠くの位置に移動した少女を見ながら、機会を逃してしまったと落胆した。せっかく少女が遠くの位置になり、解放されると思っていたのに、これでは気が重いままだ。どうしようかと悩んでみたものの、何かの機会を見て返すしかないと思い直した。

 機会を伺っている間に、数日が経った。隣の席のクラスメイトが変わり、教科書を見せることもなく、穏やかに日々は過ぎ去っていったが、内心は穏やかではなかった。日に日に返さなければならないという気持ちは膨れ上がり、返すときのシミュレーションをしては今日こそはと意気込むものの、返せていない自分に失望すらしそうになっていた。

 休み時間になるたびに少女を伺っていたら、無意識に少女の方を見てしまうようになっていた。その日も授業中に何とはなしに少女の方に目を向けて気がついた。少女は隣の席のクラスメイトの机に自分の机を寄せることもなく、自分の教科書を広げて授業を受けていた。

 一瞬カッと頭に血が上ったのを感じて数秒、自分の教科書持ってこられるんじゃないか、今まで見せてあげていた私は何だったのか、でも隣のクラスメイトに迷惑をかけていないことは良いことだ、と様々な感情が湧いてきたが、それもすぐに収まった。収まったと同時に、今は自分の教科書を使っているのに、なぜ私の隣の席の時には教科書を見せてもらっていたのか、という疑問が湧いてきた。もやもやしているうちに、ある日の授業中に少女に渡した紙に書かれて返ってきた言葉を思い出した。

『仲良くなりたいから?』

 少女は本当に私と仲良くなりたくて教科書を忘れてきていたのか?

 分からない。少女の考えていることは本人に聞いてみなければ分からない。

 今日の放課後、直接聞いてみるしかない。そう決意した私は、残りの授業に集中した。不思議と嫌な気持ちはなかった。


 放課後になった瞬間、少女は教室を出ていくことを知っていたので、私もホームルームが終わると同時に鞄を持って、教室を出た。廊下に出ると、廊下は思ったよりも生徒たちで溢れていた。それでも、学内では珍しい明るい茶色の髪の少女は、黒髪の生徒たちの中では目立っていて、すぐに見つけれらた。校舎を出たら追いかけようと思い、一定の距離を保って後を追っていたら、少女は途中の階で階段を降りるのをやめ、廊下の突き当たりに向かっていった。それはいつも私が通るルート、図書室へのルートだった。図書室で少女を見かけたことがなかった私は、また疑問と好奇心が湧いてきた。

 少女にばれないように図書室に入ると、少女の立ち止まった棚の隣の列に身を潜め、本の隙間から少女の様子を伺った。そこは、私がこの間まで読んでいたシリーズのある棚の前だった。もしかして、と思っているうちに、少女はそのシリーズの途中の巻を取り出して振り返った。まずい気づかれる!と思ったのも束の間、振り向いた少女と目が合ってしまった。少女はニカッと笑うと、私のいる本棚の列に回ってきた。逃げれば良かったし、何食わぬ顔をしてやり過ごすことも出来たのに、自分が後をつけて見張っていたという後ろめたさに、動くことが出来なかった。

「三保谷さんだ〜。こんなところでどうしたの?」

 屈託無く話しかけてきた少女に罪悪感を覚えたが、正直に答えられるわけもなく、はぐらかすしかなかった。

「そのシリーズ、読んでるんですね」

「そうだよ。前に三保谷さんが教室で読んでるの見て、あたしも読んでみようって思って、読んでるんだけれど面白いね!」

「そ、そうですか」

 そうですか、と言って聞き流しそうになったが、私が教室で読んでいるのを見て読み始めた? どういうことだ?

「今、私が教室で読んでいるのを見て読み始めたと言いました? それってどういうことですか?」

 少女は「うーん」と唸ると、場所を変えようと提案してきた。それに頷くと、少女はカウンターで本の貸出手続きを済ませ、こっちと歩き始めた。

 図書室を出てすぐの階段を上り始め、どこまで上がるんだろうと思っていたら、階段の最上階の踊り場で、少女は階段に座った。

「隣、座りなよ」

 躊躇していた私を見て少女は促した。少女の左隣に座って少女の方を向いたら、隣の席だったときの感覚が蘇ってきた。

「さっき借りていた本は、本当に三保谷さんが読んでいるのを見て興味が湧いたから読み始めたんだよ」

 嘘じゃないよ、と付け足した少女は私を安心させるかのように微笑んだ。

「それは、なぜですか?」

「なぜって、三保谷さんにも興味があったからだよ」

「興味?」

 仲良くなりたいって言っていたことか?

「ほら、気になる人のしていることは気になるって言わない?」

「言いますけれど、って、気になる人!? 私が?」

「そうだよ。仲良くなりたいって前に言わなかったっけ?」

 言ったかどうかで言えば、紙に書かれていたから正確には言ったわけではないけれど、と関係ないことが頭をよぎった。混乱している。

「もしかして、教科書を忘れてきていたのは、わざとだったんですか?」

 混乱している頭から溢れてきたのは、毎日教科書を見せていたことだった。

「わざと、だね。三保谷さんとどうやったら仲良くなるきっかけが出来るかなって思って、わざと忘れた振りをしていたんだ。毎日見せてくれてありがとう、三保谷さんは優しいね」

「そういうわけでは、ないです」

「ちょっと嫌そうにしていたから申し訳ないなって気持ちはあったんだ」

 ごめんね、と少女は申し訳なさそうな顔をした。それを見て、私は嫌そうにしていたように見えていたのかと思った。それは誤解がある。

「……迷惑でしたけれど、嫌ではなかったです」

 少女の方を直視できなくて、目を背けながらになってしまった。それでも、少女はその言葉を聞いた瞬間、嫌じゃなかったんだと嬉しそうにはにかんだ。少女の初めて見せた表情に戸惑いを覚えつつ、私も悪い気はしなかった。

「そ、そうだ。あの、これ、借りたままでしたシャーペン、ありがとうございます」

 おずおずと鞄からシャーペンたちを取り出し、少女に差し出した。

「あー! それ、いいよ、返さなくて。あげようって思っていたのだから、そのまま使って」

「え、それは、悪いですよ……」

 尻込みした私に、また屈託のない笑顔をした。

「教科書、毎日見せてくれていたお礼ってことで、どうかな?」

 使っていいよ、と笑う少女に断る気もなくなったので、それでは使いますと言うしかなかった。鞄に仕舞って少女に向き直ると、まだニコニコと笑っていた。

「あとね、3つお願いがあるんだけれど、いいかな?」

 いつの間に立場が逆転したんだと思ったけれど、結局私が使うことになったものの返すと言うのが遅くなってしまったことと、少女の後をつけていた罪悪感があった私は頷くしかなった。

「えっとね、名前で読んで欲しいのが1つ目」

「名前? え、鷺沢さん……?」

「名字じゃなくて、華奈って読んで欲しいな」

「華奈、さん」

「さんも付けなくていいよ」

「華奈……?」

 少女の圧に押されて下の名前で呼ぶと、少女はまたも嬉しそうに笑った。

「あたしも下の名前で呼んでもいい?」

「う、うん……」

「美花ちゃん!」

 私の名前にはちゃんを付けるのか、と冷静な自分が突っ込みをしていたが、少女の呼びたいように呼んでもらおうと思った。

「2つ目はね、また今みたいに美花ちゃんと話したいんだ。いいかな?」

「私で良ければいいですよ」

「3つ目は、友達からでもいいから、私とのこと、考えて欲しいな」

 少し照れたように言った華奈の姿に、私も釣られて赤くなってしまった。考えて、と言うのは、気になると言っていたからつまりそう言うことなのだろう。通っている学校が女子校なので、女の子同士で付き合っている生徒を見かけることはあったが、まさか自分にそういう縁が回ってくるとは思わなかった。思っていなかったので、今まで考えたこともなかったし、自分が誰かの恋愛対象になるということも考えたことがなかった。

 しかし、目の前の華奈の姿を見ていたら、嬉しいような、照れるような感情がふつふつとこみ上げてきた。不思議と嫌な気持ちはなかった。

「……前向きに考えますね」

「ありがとう!」

 パッと笑顔を見せた華奈は、あと、と付け足した。

「敬語、やめない?」

 4つ目のお願いになっちゃったね、と華奈は苦笑いした。

「それは、すぐには変えられないので、おいおい……」

 私の言葉に華奈はふふっと笑うと、立ち上がった。

「今日は一緒に帰ろう? 本当はもっと話したいけれど、遅くなっちゃうと家の人も心配するでしょう?」

 はい、と頷いて立ち上がり、華奈と並んで階段を降りた。

 校舎を出ると、いつの間にか太陽は夕日になって、辺りをオレンジ色に染めていた。眩しいね、と目を細めた華奈の明るい茶色の髪が夕日の中で透き通っていた。

 華奈が借りていたシリーズの話をしながら最寄り駅まで歩いていった。電車の方向は逆方向だったので、駅で別れることになった。

「また明日」

 私が華奈に言うと、またあの屈託のない笑顔になった。

「また明日!」

 嬉しそうに手を振ると、華奈は帰宅ラッシュで混み始めた人の波の中に消えていった。

 昨日の私からしたら、ただの隣の席の教科書を見せてあげる少女だった華奈と、こんなにも話すことになるとは、また明日と言う間柄になるとは思わなかっただろう。

 昨日までの関係と、今日からの関係でこんなにも違うのか。昨日まで感じていた焦りと失望感はどこかに消えていた。すっきりとした気持ちだった。

 明日は華奈と何を話そう。

 お互いに知らないことばかりだから、色々話せそうだと思ったら、わくわくした気持ちになってきた。

 早く明日にならないか。

 そう思っている自分に少し驚きつつ、華奈のことを思うと暖かい感覚が生まれてきた。その感覚に戸惑いを感じたが、嫌な感情ではないなと判断した。それがどういう名前の感情なのかは考えないことにして、今は華奈との明日のことを考えることにした。

 ふと、連絡先を交換し忘れたことに気が付いたが、明日会えるからその時にしようと思い直した。

 明日会える。華奈は同じような気持ちになるのだろうか。それも明日聞いてみようと思った。明日が待ち遠しいと思うのは何年ぶりだろうと思った。

 ビルの合間から差し込んできた夕日が眩しくて、目を細めた。断続的に差し込んでくるオレンジ色の光に包まれると暖かく感じた。きっと華奈も同じ光に包まれているかもしれないと思うと、少し安堵した。

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