<10>病魔退散
江戸の町に奇怪な流行り病が広がろうとしていた。原因が掴めない疫病で、全ての民百姓が恐れ慄くのみであった。こうした一件は奉行所の関与することではなく、町の混乱を鎮めるための取り締まり以外、手の施しようがなかったのである。
「妙な流行り病だが、こればっかりは、なっ! ははは…」
兵馬は杯を傾けながらお芳の置屋で独り言ちた。言う迄もなく、酌はお駒である。摘みにする酢味噌の鯉の洗いが冷酒に合う。
「ですわね…。本当、困りましたわ。枕を高くして寝られやしない…」
「…だな」
兵馬はそう軽く受け流すしかなかった。探索の当てがない災いだから、兵馬でも手が出なかったのである。
「こうした場合は徳利の精…いや、やはりここは素戔嗚さまか…」
杯を飲み干し、小声で兵馬が頬を緩めて呟いた。
「なにか、おっしゃいました?」
「いや、なんでもない…」
兵馬は思わず口を噤み、鯉の洗いを口に含んだ。ふと見遣れば、前栽の紫陽花の色鮮やかさも褪せ、早からぬ梅雨明けを告げている。今年も暑い夏が巡ろうとしていた。
「それにしても急に暑くなったな…」
お駒が団扇で兵馬を煽る。
「冷やし飴の季節ですわね…」
「ああ…。だが今年は、余り出歩けぬからのう…」
「嫌だわ、兵馬さまったら。そう言われて、すぐ出歩くんだから…」
お駒が、いつも攣れなく消える兵馬に釘を刺した。
「おお、そろそろ降り出したか…」
生暖かい風を吹き消すかのように、梅雨の終わりを告げる激しい雨が落ち始めた。
「それにしても、蔦屋の味噌田楽は美味しゅうございますわ。いつも、ありがとう存じます」
「いやなに…。好物ゆえ、寄ったついでよ。ははは…他意はない。払いは払う」
兵馬がお芳の置屋で飲み食いした分は月締めで支払わられていた。
「分かってますよ」
お芳が話に加わる。
「夏場はいいとして、冬場はどうすんですっ?」
お駒が何気なく訊ねる。
「ああ、木の芽のことか…。気になった故、某もいつやら店の者に訊ねたことがある」
「どう言ってました?」
「なんでも、持ち山の山中に洞があり、その中の氷室で凍らせておくと言っておったな。縄暖簾を上げた頃からだそうじゃ…」
「ということは、寛永の頃ですわね…」
「まあ、そうなるか…。山椒の風味あっての味噌田楽だからのう。洞か…。洞の中なら寒かろうが、流行り病の心配はなさそうだな、ははは…」
兵馬は笑いながら小鉢の鯉の洗いを口中へと放り込んだ。だが放り込む際、洗いの甘味噌が袴にポトリと落ちたことまでは気づいていない。お駒は見ぬ振りをして見過ごした。
ひょんなことで流行り病の原因が知れたのは、それから半月ほどしてである。とはいえ、それは兵馬だけが知る事実だった。兵馬がその事実を知ったのは、いつもの奉行所勤めを終え、蔦屋の味噌田楽を買い求めに歩き出したときだった。その日は、暑さもあってか人通りは疎らで、細い辻を回り近道をしようと兵馬はしていた。そのとき突然、底冷えするような冷たい風が吹き渡ったかと思うと、兵馬の前に得体のしれない物の怪が現れたのである。
「なに奴っ!」
兵馬は無意識に叫び、刀の柄に手をかけ身構えた。
『へへへ…旦那』
物の怪に旦那と呼ばれる筋合いなど、兵馬にあろうはずがない。最初は少しゾクッ! とした兵馬だったが、何度も不思議な出来事に出食わしているから、心もそんなには昂らない。要するに、怖さに対する免疫とでも言うべきものが備わっていたのである。
「旦那などと馴れ馴れしく呼ぶなっ!」
『すいやせん…。出来の悪いのは死につきでして…』
「死につきっ! なんだ、それはっ!?」
『ですから、死につきなんでやす。生まれつきの逆でして…』
「ああ、そういうことか。紛らわしい言い方をするなっ!」
『どうも、すいやせん…』
「それで、改めて訊ねるが、その方、いったい何者だ。見たところ、この世の者ではないようだが…」
『へい、左様で…。あの世の者です。掻い摘んで申せば、徳利の精は、おいらの兄貴になりやす』
「徳利の兄貴…どこかで聞いたことがある名だが…」
『そりゃ、そうでしょ。徳利坂は、よくご存じで?』
「ああ、いつぞやの徳利坂の一件か…。で、その徳利の精の弟分が拙者に何用だっ!」
「何用もなにも…ちょいと兄貴に事づかりやしてね」
「なにをっ!」
『疫病の一件をっ!』
「おお、そのことかっ! して、なんぞ知っておるなら申してみよっ! 何故世の人々を苦しめるっ!」
恐怖心はどこへやら、兵馬は詳しく知りたくなった。原因が分かれば、世のためにもなるからだ。
『へへへ…。馬鹿にしちゃいけねえや。悪さをして、おいら達を苦しめているのはお前さん方、世の人々じゃねえかっ!』
そうはっきり言われれば、兵馬も返す言葉がない。
「…」
兵馬は思わず口籠った。
『分からねぇ~のかい? へへへ…じゃあ、言ってやらぁ。訳が分からねぇ普請でおいら達の住処を潰し、住めねぇ~ようにした覚えはねぇ~のかよぉ!?』
環境破壊のことを申しておるのか…と、兵馬には刹那、思えた。
「それは…」
『答えられねぇ~だろっ! まっ! 自業自得ってことさっ! へへへ…』
徳利の精の弟分はニヒルに嗤い捨てた。
「いや、それはこちらが悪い…。ならば、いかにせよとっ!?」
『素直に悪~ぅございました、と反省する他ねぇ~だろっ! 言葉じゃダメだぜ、態度でなっ! まっ! その態度見てからの、こった!』
病魔退散はお上や世間の人々の反省次第ということらしい。
その後、病魔がすぐに退散したのか? までは定かでない。ただ、兵馬がお芳の置屋で、お駒に膝枕をさせ寛いでいるところを見ると、どうも退散したように思える節がなくもない。^^
完