後編
「アラン様、それは聞き捨てなりませんな」
思わずびくりと肩が跳ねるほどに威厳のある、凍て付くような声の主を振り返ると、私は思わず両手で口元を覆った。
(お、お父様……!)
そこには、普段は滅多に声を荒げることすらないのに、今は完全に怒り心頭といった様子のお父様の姿があった。いったい、いつの間にこの場に来ていたのだろう。
さすがに、自らの失言に青ざめて言葉を失うアラン様に、お父様ははっきりと言い放った。
「娘との婚約を望んだのは、アラン様、貴方様の方でしょう。嘘はよろしくありませんな。
そして、私は一国の宰相である前に、ナディアの父親です。大切な一人娘をこれほど侮辱され、黙っている訳にはまいりません。
貴方様とナディアとの婚約は、これを限りになかったことにしていただきます。国王陛下にも、すぐにこのことは申し伝えましょう」
「そ、そんな……」
私は突然現れたお父様の言葉に驚きつつも、ほっと胸を撫で下ろしていた。
私をこの国の王妃に据えることは、父にとっての悲願なのではないだろうかと、そう思っていたからだ。それなら、私がアラン様に何をされ、何を言われたとしても、見て見ぬふりをして耐えようと思っていたのだけれど、どうやらそうではなかったようだ。
血の気が引いたアラン様に対して、パメラ様は、まだこの状況を正しく理解できてはいないようだった。拗ねたような甘え声で、アラン様の耳元に囁きかけている。
「ねぇアラン様、それなら、私と婚約してはいただけませんか?
私のことをこの国の王妃にしては、いただけないものでしょうか……」
空気を読めていないパメラ様をきっと睨み付けたアラン様を見る限り、さすがに気付いているのだろう。
第一王子のアラン様と、第二王子のノーラン様を支持する派閥は分かれている。私との婚約が決まり、宰相であるお父様が背後についたことで、アラン様の王位継承がほぼ確実になっていたけれど、それが白紙に戻ったということが。
そして、私との婚約破棄をするのなら、次期国王の座を守りたいのであれば、アラン様からこの婚約を申し入れていた以上、父である宰相の怒りを買うような方法は、少なくとも避けるべきだったということを。
お父様は、まだ怒りが収まらない様子ではあったけれど、私の身体を支えてくれていたノーラン様に視線を移すと、丁寧に一つ頭を下げた。
「娘のことを庇ってくださり、感謝します。王妃教育や学園の勉強面でも、随分と娘の力になってくださっていたようですね。
……娘からも、家ではアラン様ではなく、ノーラン様の名前ばかりを聞いていたのですよ」
「お、お父様、それは内緒に……」
あまりの恥ずかしさに、慌ててお父様の袖を引いた私は、いつも冷静なはずのノーラン様が、その頬を真っ赤に染めていることに気付いた。
お父様は、私の顔を正面からじっと見つめた。
「お前とアラン様との婚約を認めたのは、それがお前の幸せに繋がると信じていたからだ。だが、お前の話を聞いているうちに、お前がアラン様に確かに大切にされているのか、それともそうではなく、お前の気持ちはノーラン様の所にあるのかが、私にはわからなくなってきた。
……今日は、それでお前たちの様子を自分の目で確かめようと思って来たのだが……」
お父様がアラン様に、再度冷ややかな視線を向けると、アラン様は決まり悪そうに俯いた。
お父様は、次にノーラン様を視界に捉えると、今度は穏やかな色を湛えた瞳で、ノーラン様に話し掛けた。
「どうやら、私は娘の気持ちという大切なことを、おざなりにしてしまっていたようですね」
お父様の言葉に言外に込められた意味に、私は自分の気持ちがお父様には筒抜けになっていたことに、そして、それがノーラン様にも伝わってしまったことに気付いて、かあっと顔中が熱くなった。
(これでは、ノーラン様のことを困らせてしまうわ……)
けれど、ノーラン様は私を見つめて嬉しそうに微笑むと、今までに見たこともないような甘い表情で、愛おしそうに私のことを見つめ、お父様の目の前で私の足元に跪いた。
「……お互いに婚約破棄したばかりですが、もし、ナディア様が嫌でなかったら。
改めて、僕と婚約してはいただけませんか?」
私は、まるで夢を見ているようだと思いながら、その答えを口にしていた。
「はい。よ、喜んで……!」
そう、私は、もう随分前から、アラン様ではなく、私を優しく支えてくれるノーラン様のことを、心密かに想っていたのだ。
迷惑にならないようにと、自分の気持ちにはずっと蓋をしていたつもりだったのだけれど、今目の前で起こっていることに、そして私の手を取って嬉しそうに立ち上がったノーラン様の姿に、信じられないような気持ちでいた。
ようやく溜飲を下げた様子のお父様も、ノーラン様に対して目を合わせて頷くと、手を取り合って互いに頬を染める私たちのことを、微笑ましげに見つめていた。
***
お父様から婚約破棄の一部始終を耳にした国王陛下は、非常にアラン様に対してご立腹なさったようで、王位継承権をアラン様から剥奪し、ノーラン様に与えたそうだ。
その後すぐにパメラ様もアラン様の元から去ったようだと、風の噂に聞いた。
王宮を訪れ、ノーラン様から事の次第を聞いていた私に、彼は微かに苦笑した。
「王位を継ぐことには、実はあまり興味はなかったんだけどね……。
僕があまり目立たないように過ごしてきたのも、兄上との王位継承争いの火種になるようなことは避けたかったからなんだ」
その言葉に、私は、今まで気配を消すように過ごしていたノーラン様の学園での様子がようやく腑に落ちた。これほど優秀なノーラン様なら、学業のみならず、やろうとさえ思えば、いくらでも人目を惹く活躍が出来たことだろう。
ノーラン様は、ソファーで隣に座っていた私のことをそっと抱き寄せると、私の髪を撫でながら小さく呟いた。
「でも……」
「でも?」
ノーラン様の言葉に、彼の顔を見上げると、彼はふわりと優しく微笑んだ。
「せっかく、ナディアはあんなに頑張って王妃教育を受けてきたんだから。王妃になって、学んだことを活かせた方がいいでしょう?」
「えっ、私のために、ですか……?」
ノーラン様と婚約し、私のことを名前で呼び捨てにしてくれるようになったことに、多少のくすぐったさを感じながらも、顔に戸惑いを浮かべた私を見て、ノーラン様は、私に回した手に力を込めた。
「それにね。君が隣にいてくれるのなら、僕も良き国王になれるように努力できそうだ」
愛おしむような彼の視線にどきまぎしながらも、私は一つだけ、どうしても気になっていたことを聞いた。
「あの、ノーラン様。
……私がノーラン様のことを大切に想っていることは、確かなのですが。
私には、パメラ様のような目立った美しさも、愛らしさもありません。
私などがノーラン様のお相手で、本当によかったのでしょうか……?」
彼の態度からは、私を女性として愛してくれている様子が伝わってきたけれど、私にはそれが不思議でならなかった。彼の以前の婚約者であるパメラ様と、私のタイプは明らかに違う。もし、ノーラン様の気持ちが、実は単なる私への同情に過ぎなかったのなら、それにつけ込んでいるようで申し訳なかった。
彼の口元に、ふっと薄い笑みが浮かんだ。
「パメラは、やはり思った通りの女性だった。
彼女をあの時婚約者として選んだかいがあったと、今でも思うよ」
「……?」
彼の言葉の意味するところがわからず、きょとんとした私に、ノーラン様は柔らかく微笑んだ。
「……実は、僕はずっと以前から君のことを見ていたんだ。兄上に、君を婚約者として紹介された時からね。穏やかで癒される君の笑顔を見て、一目惚れだった。そして、努力家な君の姿を近くで見ているうちに、さらに強く君に惹かれていったんだよ。
でも、君は兄上の婚約者だ。僕から手を出す訳にはいかない。
それに、君がもし幸せそうだったなら、僕は君のことを諦めようと思っていた。
けれど、君の辛そうな表情と、兄上の君に対する態度を見て、僕は君を手に入れるために、一芝居打つことにしたんだ。
それで、駒としてパメラを利用したという訳さ。……僕の婚約者候補として上がった女性の中で、最も権力欲が強く、僕の婚約者という立場を利用して王宮に入り、兄上に近付きそうだった彼女をね。まあ読み通りだったよ。あの婚約破棄の場面のお膳立てをしたのは、実は僕だったという訳さ。さすがに、兄上からの君への暴言は許せなかったけれどね。
兄上は、前から僕を敵視しているようなところがあったんだ。僕は兄上に頭では負けない自信はあったし、兄上も僕と比較されて、引目を感じるところもあったのかもしれない。それが理由なのかはわからないけれど、どうしてか、兄上は昔から僕のものを欲しがるんだ。だから、僕は、僕が彼女を自ら望んで婚約者に選んだかのように、兄上にも周囲にも見せるようにしていたら、兄上はあっさりと引っかかったよ。
兄上に君を紹介された時も、あえて君に興味のなさそうな素振りをした。もし僕が君に好意を持っていると知ったら、兄上は君を愛しているかどうかにかかわらず、決して君を手放そうとはしなかっただろうからね。君は気付いていたかな、僕は、兄上の目がない時を見計らって、君に話し掛けるようにしていたんだ。
本当は、パメラのような女性は、最も苦手なタイプなんだけれどね。純粋で頑張り屋で、そして笑顔が魅力的な君のほうが、彼女とは比べ物にならないくらいに素敵だよ」
「あ、ありがとう、ございます……」
私は頬に血が上るのを感じながら、あの婚約破棄の場面を思い返していた。
「私、アラン様と親しげにするパメラ様の様子を見て、いつも穏やかなノーラン様でもさすがに怒るのではないかと、傷付くのではないかと、心配でした。
……でも、貴方様は、淡々とした冷たい表情をしただけでしたので、内心では小首を傾げていたのです」
「ふふ、これでわかったでしょう?
僕はあまり感情が動く方ではないのだけれど。僕の心が躍るのは、君と一緒の時間を過ごす時だけだし、僕が怒るのも、君を傷付けるような奴がいる時だけだ。
……これからも、僕は絶対に、君のことを守るから」
想像以上に切れ者らしいノーラン様に熱い瞳で見つめられ、自分が思っていた以上に愛されているらしいことを知って、私も勇気を振り絞ると、恥ずかしさに少し震える手に力を込めて、ぎゅっと彼のことを抱き締め返したのだった。
最後までお付き合いくださり、どうもありがとうございました!
また、短話連作の「神官カトリーナの託宣帳」も更新しております。
こちらにもお付き合いいただけたら、とても嬉しく思います。