前編
(……あ、また、だ……)
意図せず私の視界に入った、顔を寄せて親しげに笑い合う2人の姿から、私は慌てて目を逸らした。ほんのりと頬を染めてアラン様の腕に手を絡めている、特徴的なピンクブロンドの髪をした美しい女性は、遠目に見てもパメラ様に間違いない。
「どうしたの、ナディア様?
……何だか、顔色が悪いよ」
思わず顔を引き攣らせた私に気付いた様子のノーラン様が、気遣わしげに私の顔を覗き込んだところで、私は慌てて彼の腕を引いた。
「ごめんなさい、ちょっと貧血気味みたいで。
申し訳ないのですが、少しノーラン様の腕をお借りしてもよろしいでしょうか?」
そう言いながらも、ぐいとノーラン様の腕を引き、割としっかりした足取りで大広間の中央から遠ざかる私に、彼は不思議そうに目を瞬いていた。
ようやく人々の合間を縫って、人気のないバルコニーに抜け出してから、私は静かに溜息を吐いた。
(……優しいノーラン様に言えるわけ、ないわ。
貴方の婚約者のパメラ様と、貴方のお兄様で、私の婚約者のアラン様が、あんなに親しげにしているなんて)
アラン様はこの王国の第一王子であり、そして、私は彼の婚約者でもある。私はこの国の筆頭公爵家に生まれ、かつ宰相も務める父の存在により、3年ほど前にアラン様との婚約が調った。政略結婚でしかあり得ないこの縁談だったけれど、2つ歳上のアラン様のために、私も将来の王妃として、十分に国母としての義務を果たせるようにと、必死に王妃教育を受けていた。
私にとって幸運だったのは、アラン様の腹違いの弟の、この王国の第二王子であるノーラン様が、同じ王立学園の同級生で、今では気のおけない存在になっているということだ。
人目を引く華やかな容貌のアラン様に対して、端正な顔立ちながらも、穏やかで控えめな雰囲気のノーラン様は、どちらかというと学園ではひっそりと、大人しく影のように過ごしていた。ノーラン様と同じクラスになる前に、アラン様との婚約後に初めてノーラン様に紹介された時には、私に興味のなさそうな彼の態度を随分と素っ気なく感じたものだったけれど、ある日を境に、私はノーラン様の優しさに気付くことになった。
ある時、厳しい王妃教育に疲れ切って、王宮での授業後に、王宮の中庭で思わず涙を溢していた私に気付き、柔らかな笑顔で声を掛けてくださったのがノーラン様だったのだ。
「ナディア様、今日は王宮に来ていたんだね。王妃教育を受けに来ているの?」
学園でもほとんど言葉を交わしたことのなかったノーラン様から、予想外に突然言葉をかけられ、慌てて涙を拭って頷いた私に、彼は私の涙を見なかったふりをして、ただたわいのない話をして私を和ませてくれた。それが、ノーラン様と仲良くなったきっかけだった。
アラン様は、私が王妃教育のために王宮に来ている時も、お忙しいのか、特に顔を出したり、相手をしたりしては下さらない。けれど、ノーラン様は、そんなアラン様に代わって、それからことあるごとに王妃教育帰りの私を気遣い、声を掛けてくれるようになった。
アラン様は、内心では私に興味などなく、ただ宰相家の後ろ盾が欲しいだけなのかもしれない、とは、どんなに鈍い私でも薄々感付いてはいた。それでも、アラン様に嫁いだら王宮にはノーラン様がいると思うと、その事実には励まされた。
クラスでは一見目立たないノーラン様が、実は話題が豊富で、信じられないくらいに博識でもあることに気が付いたのは、そうして彼と王妃教育の帰り際によく話すようになってからだ。
確かに彼は常にトップの成績を維持していたけれど、成績という一つの尺度ではくくり切れないくらいに、彼は頭の回転が驚くほど速く、そして会話は機知に富んでいた。さらに、穏やかな笑顔で私の話にもよく耳を傾けてくれる彼のことを、私はすっかり気を許して信頼するようになった。
彼はいつも優しい笑みを浮かべて、王妃教育に関することや、学園の授業について、私の理解が至らない部分をわかりやすく教えてくれる。初歩的なことを聞いても、嫌な顔一つすることはなかったし、彼の怒った顔はいまだかつて見たことがなかった。
そんなノーラン様の婚約者であるパメラ様は、妖精のように可憐な容姿の、とてもお美しい方だ。多くの婚約者候補がいた中から、ノーラン様が彼女を選び出したことも頷ける。
普段物静かで、あまり女生徒に対しても興味を示さないように見えるノーラン様が自ら選んだということは、パメラ様のことを、きっと彼はとても愛していらっしゃるのだろうと思う。そんなノーラン様に、パメラ様とアラン様があれほどに仲が良さそうに、顔と顔が触れそうな距離で意味ありげな視線を交わす様子を見せたくはなかった。最近、彼らがやたらと親しげな様子をよく見掛ける。アラン様曰く、これから義妹になるパメラ様とは親睦を深めておきたいとのことだったけれど、それにしたって程度問題というものがある。アラン様の気持ちはもうとっくに諦めている私だったけれど、いつもそっと味方になってくれるノーラン様の悲しむ顔を見たくはなかった。
広いバルコニーに抜け出して、涼しい夜風に頬を撫でられながらようやくほっと息を吐いた私は、しかしすぐにまた顔を顰めることになった。
ノーラン様と私がバルコニーに逃避してからそれほど間をおかずに、アラン様とのパメラ様もまた、バルコニーに出て来たのだ。
少しお酒の入っている様子のアラン様は、人目も憚らずにパメラ様と腕を組み、良い雰囲気になっていた。アラン様の身体に、パメラ様が色っぽくしなだれかかっている。
そんな様子に慌ててノーラン様の腕をまた引っ張ろうとしていた時、アラン様がパメラ様を熱っぽく見つめて口付ける姿を、私は目撃してしまった。
「……!」
決定的な場面まで目撃したのはこれが初めてで、うっかり固まった私に、ノーラン様も彼らの様子に気付いてしまった。
冷たい視線を2人に投げたノーラン様は、「ふうん」とただ小さく呟いただけだった。私がはらはらしていると、私たちにまったく気付かない様子のパメラ様が、くすくす笑いながら話す声が聞こえて来た。
「ねえ、アラン様、どうしてナディア様と婚約なさったのですか?
私の方が、きっと貴方様のことを支えて差し上げられるのに」
「そうだな。俺も、できることなら君に側についていて欲しいよ。
だが、ナディアの背後には宰相がいるからな。それがなければ、特に面白味もない彼女のような……」
そこからのアラン様の言葉は、私の耳には届かなかった。なぜなら、ノーラン様が、その両手で私の両耳を塞いだからだ。
彼の顔を見上げると、さっきパメラ様の浮気を目にした時にすら浮かんでいなかった怒りの表情が、はっきりと彼の顔に浮かんでいた。
またアラン様とパメラ様が唇を重ねた時、ノーラン様はようやく私の両耳から手を離すと、冷ややかにパメラ様に対して言い放った。
「パメラ。君との婚約は、今この時をもって破棄する」
はっとノーラン様と私が至近距離にいることに気付き、彼の言葉に凍り付いたパメラ様は、助けを求めるようにアラン様を見上げた。アラン様も、私が近くにいることに気付いて慌てふためいている様子だ。
「ナ、ナディア。これはその……」
「兄上」
私の代わりに、ノーラン様が口を開いた。
普段穏やかな彼だけに、そんなノーラン様の怒気の篭った口調には、恐ろしく迫力があった。
「兄上の妻として立派な国母になるため、厳しい王妃教育にも耐えているナディア様に対して、何という酷い言葉を。
彼女は素晴らしい女性です。彼女を侮辱するような言葉だけは、僕は見過ごせません」
アラン様の表情もふいに怒りを帯びたものに変わった。今まで口答えすらしてこなかった弟に対して、かちんと来た様子だった。そして、酔った勢いもあるのかもしれないけれど、苛立ったように口を開いた。
「……はっ、俺に対して意見を言うのか、生意気な。
俺は真実を言ったまでだ。ナディアが宰相の娘でなければ、こんな婚約はしてはいなかった。
この婚約は、あくまで政治的なものだ。宰相側が俺に望んだのだよ……」
(ああ、やっぱりそうだったのね)
予想はしていたことだっただけに、失望よりも、私の口からはただ、乾いた笑いが漏れただけだった。
けれどその時、聞き覚えのある低く厳しい声が、私の背後から聞こえてきた。