ボロアパートの大魔王
そのアパートには大魔王が棲んでいる。
本名は誰も知らない。表札がすり切れて読めないからだ。けれど一日何度か扉が開いて、目付きのキツい老人がくたびれたジャンパーをはおって出てくるから、人が棲んでいることはみんな知っている。
老人は、陰で『ボロアパートの大魔王』と渾名されていた。
彼はいつも苛々していた。
睨むものを探すように目線を走らせ、鼻の下に生えた髭を触っている。そして通行人をみては文句をたれた。
犠牲者は理不尽な目にあったように顔を歪めて去るばかり。渾名の理由はそんな口うるささにあった。
「こんなところで遊ぶんじゃないっ」
大魔王は今日も怒る。
言われた小学生はボールを拾い、口を尖らせた。
「ここは公園だよ」
「たぁけめ」
『たわけ』となじったようだったが、大魔王はいつも早口なので音が繋がる。
「ここは公園前の、道路だろうが。今に車が来るぞっ」
ちっと舌打ちをして大魔王は歩き去った。次は野良猫をいじめる若者だ。
「猫で遊ぶなっ。そんなものを動画に撮るのか?」
さんざん怒って大魔王はボロアパートに帰った。
ほうきとちり取りでアパートの前をはいていく。
「じゃあな、大魔王っ」
先ほどの小学生が挨拶していく。
かつてこの子供らがポイ捨てした空き缶を、大魔王がノートラップでゴミ箱に蹴り入れてから、実は大魔王は子供に人気があった。
小学生は大魔王の方を向いたまま、つまりよそ見したまま、交差点にさしかかる。
「ふんっ」
大魔王がぱちんと指を鳴らすと、交差点に突入しかけたトラックが急停止。
見えない壁に阻まれたように。
トラックの運転手は急な停止に目をぱちくりし、通話中のスマホを脇に置いた。
「まったく、まったく」
大魔王はぷりぷりしたまま手で小学生を追い返し、掃除に戻った。
◆
その夜、いつものように大魔王は一人で夕食をとった。
近所の主婦から分けてもらった野菜や果物、小学生が時々投げ込んでくるお菓子で、部屋は足の踏み場もない。
「まったく。大魔王のワシが、敗れたばかりにこんなつまらん世界に追放されてしまうとは。まったく、勇者のやつめ」
異世界の元大魔王は、小学生がくれたスルメをかじりながら缶ビールをあける。
「うまい」
そして口元をほころばせた。