FREEDOM 後日譚❶ 前編 『霊峰キングザンへ』
リッチー・ヘイワースはあの山を目指していた。
祖国クレイドルズの霊峰キングザン。
FREEDOM号で海を航り、着港してから廃屋を抜け、深い森の道へ歩いてゆく。
黒髭をさすりながら白く淀む濃霧を掻き分けるように前へ進む。
一九七五年、初夏の朝陽が山頂に輝く。
高く聳える杉の木。緑と黒い影が容赦なく見下ろしている。
木漏れ陽が靄を鋭利に切り分ける中、リッチーは手をかざして目を細めた。
『レプタイルズだろう? そうさ、おまえさんのルーツはクレイドルズにある』
考古学者であり冒険家、彼の師の一人であるアンディ・ジョンソンはそう言った。
『キングザンの鍾乳洞にレプタイルズの起源がある』と。
リッチーはアメリカ・ニュージャージーで育った。
ヘイワース家の先先代の話までは聞かされていたが、その前のことはわからなかった。
リッチーは自身の体の半分に流れている爬虫人類の血を怖れていた。
幼少期にうまく喋れず学校でいじめられたこと。
感情が昂った時に浮かぶ顔の文様を怖れられ、人が離れていったこと。
異様に強い腕力。銃弾も貫けない頑強な皮膚。
そして声も姿も見たものに変えられる奇跡の擬態能力。
リッチーの父親はそれを、
「我々は大半十歳ぐらいまでは喋るのが苦手だ。傷のような文様は感情のコントロールで抑えられる。強い力も化ける能力も、神が与えたもの。生き延びるために授けられた力だ」
と諭し、彼の肩をさすった。
それでもリッチーはその血を忌み嫌った。
特殊能力は悪魔の力だと怖れ、その混血を彼は隠して生きてきた。
レプタイルズのルーツを探ることなど、無意識のうちに避けてきた。
〝人間〟として生きるために、知りたくなかった。
だが、我が心のキャプテン・キーティングの血を受け継ぐ男、ジャック・パインドは自らのルーツを知った。
その若き友ジャックは苦渋を乗り越え、手探りで自分の出生の謎に迫り、そこから勇気を生んで自由を掴んだ。
* * *
いつしか登山口に足を踏み入れていた。
腕時計を見ると午前七時。
先ほどよりは霧も薄くなり、空を見上げると鳶が高く鳴き、どこまでも高く青く晴れ渡っていた。
ここに辿り着くまでリッチーはこれまでの自分が歩んできた道を、生きてきた人生を何度も何度も思い返していた。
多くの人間と関わった。
師と仰ぐ者。惚れた女。暗黒街の男たち。地下組織の人間。財宝をめぐってぶつかり、知り合った友。
戦いの末に失った友のことは生涯忘れない。
それは『ホウリン』と『ルカ』のこと。
リッチーは吹き出る汗はそのままに、ひたすら石段を踏みしめた。
誰もいない薄靄に目を凝らし、ただ吐く息の白さと熱さにしばし身を委ねた。
上へ上へと夢中で登ってゆくとやがて石段がなくなり、辺りはゴツゴツとした岩場に移り変わる。
標高二千メートルの七合目あたりまで来たのだろうか。
背後を見ると驚異の断崖が広がっている。
はるか眼下に小さく登山口が確認できる。
その先の緑の森も、青い海もはるか遠くに。
風が強く吹いた。
「う、うぉっ……」
突風に一瞬胸元を押さえられ、思わず声が出て足がすくんだ。
「くっ……。『山をなめるな』とジョンソンは言っていたが、これは……本当に行けるだろうか」
と、独り言が出てしまう。
五十代半ばでも筋力の衰えは認めないつもりだったが、ここに来て現実を思い知らされていた。
事実、山は厳しく、恐ろしい。
* * *
「バサッ」
鳶か鷲か、大きな怪鳥が一瞬遠くの空を横切った。
風はどんどん強くなる。
ほぼ直角な断崖に踏ん張り、岩に手をやった。
ジョンソンは「まあ誰でも登れるさ。靴ぐらいは履いとけ」と軽く言ったが、やはり信用し過ぎたようだ。
ーーこのルートは違ったか? トレッキングシューズは新調したが、これはもうロッククライミングのレベルだろう……。
突風に耐え、小石が転がり砂が流れてゆく斜面を時折静止しながら上へ移動する。
掴み、踏み場所を慎重に選んでゆくリッチー。
風で汗に濡れた背中が冷えてゆく。
長い時間、踏ん張った後、次に手をやり足を置いたその岩が突然、崩れた。
「う、おっ、おあーーっ!!」
身体が宙に投げ出された。
落ちた。リッチーは頭の中が真っ白になる。
まさか、終わったーーと、感じたその瞬間、肩先に投下されるロープが!!
リッチーは無我夢中で反射的にそれを掴んだ。ひゅるひゅると蛇のようにうねるロープを手繰り寄せ、掴んだ後、断崖に叩きつけられた。
「あうっ!」
その時、
「おーーい!」
声が聞こえた。
「おーーい、大丈夫かあ?」
「……はっ」
太く長い長いロープの先、薄く霧のかかったはるか頭上から確かに声がした。
「リッチー! 生きてるかあ?」
「なっ、……これはどういうことだ? 今の声は」
「……おーいっ……って。俺の声、聞こえるか? 俺の声を忘れたか?」
空に山に、天のお告げのようにかすれ声が響き渡る。
リッチーのこめかみに太い汗が流れた。
ーー俺は、実は死んだのか? あの声は……。い、いや、確かに掴んでる。このロープを握って、ほぼ直角のこの岩に肩をこすりつけて、足をばたつかせている。こ、これは……夢じゃない。現実だ。俺は生きている。ここはまだあの世でも地獄でもない……。
「おいっ! ってリッチー。だろう? ロープしっかり掴んでろ。今から引き上げっから」
「お、おい待て! おまえ! その前に!」
「話は後だ。死にたくねえだろ? 今はしばらく黙ってろ」
「……おまえは……ホ、」
問答無用にズルズルズルと引き上げられるリッチー。
霧の向こう、突き出た岩の向こうにいる声の主は、やはりリッチーの思う男に間違いなかった。
細身でも余裕の腕力に助けられ、リッチーも足を踏ん張りその広い岩場に身を投げ出した。へたり込んだまま頭を起こし、すぐさま確かめる。
声の出ないリッチーに、男はニカッと白い歯を見せた。
「久しぶり。リッチー」
「ホウリンッ!」
「『なんで生きてんだ?!』だろ? ……ごめん、な」
リッチーは拳を握り、思わずぶん殴った。
ホウリンはしっかり左の頬で受け止め、次の拳も受け止め、三回目に繰り出される拳はしっかり右手でガードした。それからトレードマークの白いイスラムワッチをいったん脱いで頭を下げた。
「すまん! でももう、これ以上は顔が砕けちまうから許して」
「許さんぞホウリンッ! お、おまえ、くっ、そ! なんで生きてんだ、なんで今まで、今の今まで! こんなところで、おいっ! ホウリンッ!! 説明しろっ!」
目を赤く額に血管を浮き立たせてリッチーは怒る。まだ殴ろうとする。
あれからおよそ十五年、それでも飄々と目の前で笑うホウリンに、リッチーはやがて抱きついた。
「うぅ……、ホウリン!」
「昔言ったと思うが……俺は忍者の末裔だぜ。ダイナマイトで爆死なんて、しねえさ」
「しかしホウリン! あれから姿を見せず」
「ん、まあ本当は自分でも死んだと思った。ただ決死の忍術で生き延びたんだ」
「はあ?」
鼻を突き合わせるほどの位置でホウリンは答え、うなずく。
「ああ。だが〝ベルザ〟にも護られたのかもしれん」
ホウリンはあれからこれまで人里離れた村で静養し回復を待ったこと、電気も通らないド田舎で連絡をする術がなかったこと、ここへは来たのはもちろんリッチーに会いに、ジョンソン氏に訊き、クレイドルズの山へ向かったことを知り、凧を使って山頂に着地したことーーを話した。
「凧?」
「カイトだよカイト。忍者らしいだろ?」
なるほど先ほどの怪鳥ーーリッチーはその黒髭をさすり、どうしようもなく相変わらずの浮世離れしたホウリンに、もう笑うしかなかった。
「リッチー。本当に悪かった。自分で言うのもなんだが、なんかいろんな意味でつらい思いをさせたな」
「バカヤロウ! 死ぬ覚悟はできていても、死なれる覚悟はできてなかったんだぞ。ジャックも、ジミーも、みんな本当に悲しんだ」
「あの時は俺も必死でさ、おまえたちを逃がすための単細胞の俺の奇策。突破口を見い出すための、イチかバチかの大博打。だが確かに、やり過ぎだったかもしれん。左腕は義手になっちまったが、生きてるだけマシだろ」
リッチーはホウリンの痩身を思い切り抱きしめた後、背中をポンポン、また顔を見合わせ、今度こそ今度こそ〝生〟を実感した。
「そう、生きてりゃいいんだホウリン。生きてりゃな。会いたかったぞ!」
「おうよ。俺もだ。本気で会いたかった」
「う、うぅ……」
やはり涙が溢れる。
そんなリッチーの背をガッシリ叩き、ホウリンは軽く身を起こした。
「……って、リッチー。俺だけじゃないぜ。下を見ろ。今から上がってくる巨体も。あいつにも会いたかったはずだ」
「え?」
「巨体だから山はキツいと言ったんだがな。俺が山頂からロープを垂らせば、腕力だけで登ってこれるような、あ・い・つ、さ」
「お、おいおいおい、まさか」
「そのまさかだよ。もうじき上がってくる」




