72.青い湖畔 ※
十二月の朝。
静かな青い湖畔に佇む二人。
それはジャックとストーン・サンダース。
傷が癒えたジャックはその隠れ家の屋敷から発とうとしていた。
杖をつき、歩いてきたサンダースはジャックの意志を確かめた。
「財産の半分をやってもいいと言ってるんだぞ。ジャック」
ジャックは遠くを見つめながら微笑み、また真顔でサンダースに顔を向けた。
「はい。昨日、言った通りです。ソサエティが俺を待ってる。リッチーも。そしてクリシアたちを守らなくては」
昨夜ジャックは動けるようになったサンダースとようやく腰を据えて話をした。
「……お前のおかげで私は救われた。恩に着る。ジャック……まさかこんな形で再会するとはな」
「いえ。俺の方こそ手厚く看ていただいて、感謝してます」
深く一礼するジャック。
その手を取り、サンダースは切なく見つめた。
「……ベルザを失い、私も悲しい。長い年月をかけ用意周到にリガル・ナピスをあの場へ引きずり出した。奴を抹殺するつもりだった。しかしまさか偽者をよこすとは……」
「ドン・サンダース。聞かせてもらえますか? あなたとベルザとの関係から」
彼は頷いて窓辺のソファに座り直し、深く鎮まる湖を見つめながら訥々と語り始めた。
「ああ。四十年も前になるだろうか、初めてベルザに会ったのは。彼が私を捜していたんだ。〝仲間〟を集めていると。『君はキーティングに仕えていた者の末裔だ』と私の秘密を言い当て、地下組織ソサエティのメンバーになってくれと私に頼んだ。その頃既にファミリーを率いていた私はそれはできなかった。初めから信用していたわけじゃない。だが彼にはいろいろ助けられた。情報も資金も。私は人材を提供した。ダグラス・ステイヤーなどは私がスラムで拾い、育てた子だ。ベルザの一途な意志と正義心に惹きつけられ、ダグラスたちはついて行った。ベルザの神秘は大きな支えだった」
「神秘……神」
「わからないか? 惹きつけられる、そういう匂いだ。……彼の経緯を聞いた。およそ信じられない話だ。……ベルザはかつて、海賊キャプテン・キーティングの側近だった。二百年前、彼は同じ側近のカイザという男に撃たれたが、鯨に救けられ蘇った。白鯨それは神の使いだという……そしてカイザとは、後のリガル・ナピスだ」
「……なるほど。やはり、奴も……普通の人間ではない」
頷くサンダース。
ジャックはベルザが漂わす潮の香りを懐かしんだ。
「ベルザ……白鯨に与えられた命、か」
「信じたくなったのだ。彼の深い海のような眼差しを」
「……マフィアのあなたを、ベルザは助けた。それはあなたが必要だったから」
「うむ。カイザすなわちナピスがキーティングの血を恐れたのに対し、ベルザはキーティングに仕えた血を尊んだ。我々の力はナピスに対抗し得ると考えたのだろう。自ら必要悪だと言うには烏滸がましいが、世の中にはあり得る話だ」
「ドン・サンダース。俺は……自分が何者なのか知りたい。ナピスの研究所で拾われた俺は、もしかしたら化け物かもしれない。そう思ってました。あの〝デューク〟のことも、記憶の底にあったんです」
「お前が何者なのか。私もベルザからそれ以上は聞かされなかった」
うつむくジャック。
手で顔を覆い、見つめているサンダースに吐露する。
「ベルザは《はっきりわからない》と言い、デュークは死ぬ間際に……《お前の父親は俺だ》と。確かにそう言った……」
「まさか」
「……でも、いいんです。だとしても俺は決して邪悪には屈しない。俺はこの手にヘヴンズパールを託された。不思議と気持ちが落ち着いているんです。俺はクリシアと、みんなを守りたいだけです」
「お前はジョージ・パインドの息子として愛された。その事実こそ糧だ」
憂えるサンダースの眼差し。
ジャックは言う。
「はい。そしてたとえこの世が、血の呪縛に宿命づけられるものだとしても、俺は自由を勝ち取りたい」
「自由を叫ぶには勇気がいるぞ。誰に委ねることもなく、自分を信じきれるか?」
「若さ故の叫びだと言われてもいい。でも俺は想い描きます。必ず報われる世界を」
「うむ。想像するのだジャック。自由に切り拓いて未来はどうなるかを」
「はい」
努めて明朗に応え、ジャックは気持ちを晴らした。
「……ビフはお前が来るのを実は楽しみにしていた。お前のような一途な若者は私も好きだ。お前の力になれてよかったと思ってる」
「ありがとうございますドン。あとベルザはクリシアのことも頼むと言った。だから俺、一つわかったんです」
見つめるジャック。それを察したサンダースは頷いて答えた。
「そう。ベルザはその血を守っていた。ずっとひた隠しに。……クリスティーンの娘、クリシアはキャプテン・キーティングの末裔だ」
鴨の親子が湖畔で戯れている。
水面に広がる穏やかな波紋と静寂。
その朝ジャックはサンダースの手を握り、別れを告げた。
そしてスーツケースを手に、迎えのセリーナの車に乗り、屋敷を後にした。




