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「これは私の見解ですが、ディミトリー様はタチバナ様に、ディミトリー様の全てを好きになってもらいたいんだと思います。男らしいと褒められたい、可愛らしいと褒められたい、強くなったなって褒められたい。恐らく今までディミトリー様の心を揺さぶるような賞賛を向けた人が居なかった。しかしここに来て本心から自分の事を褒めてくれるタチバナ様に出会った。それがこんなにも気分の良い事なのかと、ディミトリー様は初めて知ったんだと思います。ディミトリー様がよく使われる、気持ち悪いという言葉。裏を返せば言われてきた言葉なのかなと推測します。だがタチバナ様には一切そんな事をディミトリー様に思っている節が見当たらない。ディミトリー様が困った様子を見せれば可愛いと褒めてくれる。勇ましい姿を見せればカッコイイと褒めてくれる。ディミトリー様は意識的にか無意識かタチバナ様に褒めてもらうように心掛けるようになった」
エリームの一つ一つの言葉に、ディミトリーは顔が明るくなっていく。
自分でもわからない事をエリームが解き明かしてくれているような、そんな気持ちなのかもしれない。
「タチバナ様が可愛いと言ってくれる仕草、カッコイイと言ってくれる真剣さ、頑張ったなって褒めてくれる努力する姿。ディミトリー様はそのタチバナ様の一言一言が欲しくて堪らないのだと思います。だが、一つ絶対に手に入らないモノがあります。それは異性へ向ける愛情です」
明るかったディミトリーの顔が、一瞬にして強張った。
それを感じたのかエリームは敵意など無いのだと笑顔をディミトリーに向ける。
「目の前でタチバナ様とチサト様の様子を見る。あんな顔、僕には見せてくれない。ディミトリー様はそう思ってしまった。なんでだろうと、僕も体は女なのに。なんで愛してくれないのだろうと。そしてこの機会です。チサト様よりも長い時間一緒に過ごせる。チサト様でも出来ない同衾が出来る。ディミトリー様はそれを好機と捉えてしまった。僕だって体は女だ。そこも褒めて欲しい。自分の全部を知って欲しい。その上で愛して欲しいと思った。恐らくですが、女性らしい振る舞いを心掛けたのではないですか?普段ならば忌み嫌う女っぽさ。だが、タチバナ様がそれも褒めてくれるなら自分はなんだってする」
エリームはいつものような淡々とした喋り方をせず、ディミトリーに出来るだけ優しく、だけど包み隠さないよう言葉を選んで喋っていた。
ディミトリーもそれを感じるのか、黙ってそれを聞いていたが、溢れてくる涙だけは止められず、ポロポロと零しているが、エリームの話を聞くのだと言わんばかりに、袖口でそれを都度拭い、真っ直ぐエリームを見つめている。
この子は強い子だと思う。
僕ならこんなにも胸の内を他人に曝け出されれば、声を上げて辞めさせると思う。
それほど、僕達を信頼してくれている。
他人を信頼する強さを持った、本当に強い子だと僕は思った。
「ディミトリー様。あなたのその真っ直ぐな目は読心を得意とする私ですら、怖気づいてしまうほどなんの裏表もありません。ですのでその目が曇る様な事を言いたく無いのが正直な私の気持ちですが、あえて言わせて頂きます」
エリームの性格を僕は知っている。
思いやり。これを自分自身も取り入れたいと思って実行しようと努めている。
そんなエリームが言う言葉には、時折非道な程の現実が突きつけられる鋭利さがある。
それをエリームは自覚して、前置きしたのだろう。
「ディミトリー様。あなたはタチバナ様と肉体関係を持つ事が一番愛されていると実感出来ると思ってしまった。心は男でも体は女。これまで憎しみしかなかったその現実をあなたは武器として使用したのです」
その鋭利さは、ディミトリーだけではなく、僕らにまで伝わってきた。
あまりにも鋭くて、僕は一瞬自分の事の様に制止してその発言を撤回させたくなる程に。
「っぐぅ。ぅぅあぅう!」
拳を握りしめ、歯を食いしばり、涙が邪魔してエリームを見る目が開けていられなくなる。
全身。体中全てに力が入っているのがわかる。
相当だろう。
相当の苦しみを今、この小さくて細い体がそれを耐えている。
もうやめてやれと、何度喉元まで来ただろう。
だが、僕がこれを口に出せばディミトリーのこの苦しみを無駄にしてしまう。
僕はそれを嫌った。
「私にはそれを責める事など絶対に出来ません。私はディミトリー様の苦痛の1%も理解出来ないのだから。体と心の乖離。だが脳は目の前の人を大好きなのだと言っている。その人が自分のモノになる事を、自分の最も辛く苦しい枷すらも用いて努力し、掴み取ろうとした。あなたは掴みたかった。タチバナ様とのこれからの未来を掴み取りたかった。ですが、それは駄目なのです。タチバナ様はあなたを愛するでしょう。しかしその愛はあなたの望む愛では無い。あなたの望むタチバナ様の愛はもう他の人の元に注がれています。そしてそれは揺るぎない。あなたの入り込む余地は無い。いくらあなたが肉体的に迫ってそれが交わったとしても、入り込めない。あなたならわかっているはずです。タチバナ様がどういう人かを。だから私はあえて言葉にして今あなたに告げます。諦めなさい」
「ぐぅぅぅぁあ!ううぅぅぅ。っうう」
エリームの言葉が終わり、ディミトリーに突きつけられた鋭利な刃物が、心臓を抉るようにしてまだ刺さっている。
グリグリと、殺さずに痛めつけるためだけに何度も何度も捻られている。
それが僕にも幻視できるほどに。
輝く閃光から目を守るように固く瞼を閉じ、指先一本一本から力が入っている事がわかる。
こんなにも人間が苦しんでいる姿を、見ることがあるのだろうか。
僕は嗚咽と一緒に声にならない苦鳴を漏らしていた。
「先輩。目を逸らしちゃダメっス。僕も見ますから!それだけはダメっス」
俯く僕の肩に、熊本くんの手が置かれた。
あの苦しんでいるディミトリーを見続けろと言う。
今にも発狂してもがき苦しみそうなのにも関わらず、それを全身に力を込め、耐えている人間を見ろという。
僕は逃げたかった。
こんなにも一人の人間を苦しめるのならば、僕一人の気持ちを変えることでこの人間が救われるのならば、僕はすぐにでもあの子を抱きしめて、僕のありったけの愛を捧げたくなってしまった。
だけれど、それは絶対に出来ない。
今にも苦しんで死にそうな人間を前にしても、僕は僕の愛する人を裏切るなんて事は何があろうと出来ない。
僕はその幸せをもう感じてしまって、人が一人もがき苦しんでいるにも関わらず、手放す事が出来ないのだ。
なんで?
なんで僕みたいな奴をそこまで愛してくれるのだろう。
もっと、もっとあの子なら、あの子に相応しい人がいるのに。
熊本くんの手が、強く力を込めて僕の肩を握る。
見ろ。
この非道な後輩は、クソ弱虫な僕にそう言っている。
僕は顔を上げてディミトリーを見た。
「苦しい」
顔を上げた先にいるディミトリーと目が合い、僕目掛けてそう言った。
「辛い、キツい、助けて、師匠」
ディミトリーの口から次々と僕を抉る言葉が出てくる。
「ディミトリー」
何を言わなければならないのかわからない。
ただ、僕は名前を呼ぶだけだった。
「先輩。考えろ」
非道な後輩は、またしても僕の耳元でエゲツない言葉を発する。
この状態で何を考えろというのだろう。
何を言えばいい。
「先輩は何を貰ってどうして苦しい!」
何を貰って?どうして苦しい?
僕は何を貰った?
ディミトリーから、愛を貰った。
どうして苦しい?
それを受け取れないのだ。
僕の非道な後輩は、的確にヒントをくれる。
何故、コイツはこんなにも非道で優しいのだろう。
「ディミトリー。ごめんな、無理だ」
僕の発言とともに、ディミトリーの耐えていた苦しみが爆発したように、その体を弾かせ、強く握り締められた拳が何度も何度も柔らかいベッドが憎らしいように叩き込まれていた。
ディミトリーはまだ16歳だ。
まだ未来がある。楽しい事、嬉しい事沢山ある。
そんな腐れた大人みたいな事は絶対に言いたくない。
この子がどれだけ僕みたいな人間に、その楽しい未来を見てくれたのか、解らないほど僕は腐れていないと思いたい。
エリームは敢えて言うと言った。
何故か、僕にも間接的に伝えるためだ。
熊本くんは珍しく熱くなり、目をそらすなと言った。
何故か、それだけこの想いが強いからだ。
ディミトリーの人生にとって、大切な一瞬だからだ。
性同一性障害。
解らない。
僕にはどんな苦痛があるのか、どんな悲しみがあるのか到底理解出来ない。
でもこの目の前の可愛い可愛い弟子は、そんな苦しい事まで僕に愛して欲しいと体いっぱいに伝えてきてくれたのだ。
若いなんて関係ない。
ありふれた言葉や、的確なアドバイスも適切な雰囲気もクソくらえ。
今ディミトリーに必要な言葉を僕は必死こいて探さなきゃならない。
考えろ。
僕の後輩や親友は、厳しくて非道で優しい。
僕はこの3人に出会えた自分の極運に感謝した。