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「おい、どうした?」
どうしたもこうしたも。
死ぬんだよ、僕は。
むしろ今死んだんだ。
無意識でもなんでもない。
今僕は知里ちゃんに意識的に掴みかかろうとしたんだ。
彼女の口を押さえる為に、掴みかかろうとしたんだ。
イザベル。ありがとう。
絶望を味わなくて済んだ。
「あ、ごめん。腹いてぇ、ちょっとトイレ」
僕はそう言って部屋を無理矢理出た。
死のう死のう死のう死のう死のう。
あの崖に飛び降りて死のう。
今すぐに死のう。
「むねりん?どこいくの?」
やばいやばいやばいやばい。
ダメだ追いかけてくる。
死ねない。死ねない。死ぬとこを見せられない。
「あれ?聞いてなかった?トイレ行くって」
「部屋にトイレあるから!」
「そんな女子の部屋で出来ないよ!ほんのちょっと自分の部屋でトイレしてすぐ来るから!ちょっとまってて?」
「無理。だめ」
「おい、なんだ?どうしたんだ?」
「ダーリンさん?」
「いやもうごめん漏れそう!イヴァンだ!イヴァンにやられた。くそー!ちょっとまってて」
「宗則さん!絶対だめ!」
「なんの罰ゲーム!?」
「お前、なんだその顔」
え?
不意に言われたデイジーからの言葉。
階段を降り切っていた僕の横には、玄関先に掛けられた鏡があった。
なんだこいつ。
そこには顔を真っ白にし、目を真っ赤に充血させ、顔の筋肉という筋肉が強張り、小刻みに痙攣を続けている"誰か"知らない人の顔があった。
「おい!止まれ!動くと力付くでも止めるわよ!?」
クソガァ!
あのアマ!
なんで!あと少しで外なのに!
「宗則さん。私も絶対止める!こっちに来て!」
「ダーリンさん?大丈夫。大丈夫だから。あなたは大丈夫」
来るな!
一歩一歩ゆっくりと階段を降りてくるイザベル。
なんだこいつ!
何が大丈夫だ!何がわかる!
「ダーリンさん。あなたはただ近寄っただけ。何もしていない。そうでしょ?思い込み。私が目の前で見てた。絶対に言い切れる。あなたは何もしていない。信じなさい。私は見てた。あなたは何もしていない」
ーーーーー!?
「助けます。私とデイジーとあなたの大好きなチサトがあなたを絶対守ります。信じなさい。あなたは何もしていない。私は見てた。全部見てた。だから大丈夫。あなたよりも私は見ていました。だから大丈夫」
あ、あ、あ?あ、あ?
「辛いでしょう。苦しいでしょう。でも私とデイジーとあなたの大好きなチサトが、あなたを必ず守ります。だから大丈夫。今は忘れなさい。忘れなさい。辛い事苦しい事悲しい事嫌な事。今は忘れて眠りなさい。きっとあなたを助けます。だから今は眠りなさい」
気付けばその優しい声は、僕の耳元で囁かれている。
なんだ?
なんで僕はこの人の腕に抱かれている?
知里ちゃんが見てる。
なんで怒らないの?
僕は、この人に、優しくされて、気持ちいいのに。
「おやすみ」
ーーーーーーーーーーーーーーー
目がさめると、僕の頭は割れるほど痛かった。
あの頭痛か?
群発頭痛。僕の治らない病気。
でも、あれは群発期にしか来ないはず。
まだその時期じゃない。
なんだこれ、めちゃくちゃ痛い。
僕は目も瞑ってられない程の痛みに、体をもがく。
「宗則さん?」
その声とともに、痛みは一瞬にして消え去っていた。
目を開けると、目の周りを真っ赤にした知里ちゃんが僕を覗き込んでいた。
「知里ちゃん」
「う、う、うぇーーーん」
僕の声を聞くなり、顔をぐしゃぐしゃにさせ、涙が僕の顔に降りしきるほど涙を零し始めた。
「チサトちゃん。ほら、泣かないの。ダーリンさん、大丈夫ですか?」
僕はどうやらベッドに寝ているらしく、左側に知里ちゃん、右側にイザベルが寄り添っていた。
「なにこれ?」
「どこまで覚えていますか?」
あれ?イザベルってこんな優しい声だっけ?
質問の内容も無視して、僕はそんなことを考えていた。
「ダーリンさんは、チサトちゃんに手を上げそうになったと勘違いして自殺しに行こうとしましたね?」
「ーーーーー」
「でもそれは勘違いです。私が止めた時、ダーリンさんには全然力なんて入ってませんでしたよ?あれで手を上げたというなら、好きな人に近寄ることもできません」
「ーーーーー」
「私は嘘をつきません。私の母に誓って」
「ーーーーー」
「チサトちゃん?あなたはダーリンさんが怖いですか?」
「怖くない!!」
「デイジーちゃん?あなたはダーリンさんが怖いですか?」
「全然」
「私もです。ダーリンさんはこれっぽっちも怖くない」
不思議な感覚を味わっていた。
なにも考えられない。
多分いつもなら、この状況に違和感を感じ、すぐにでも自分の知っている状況にしようと頑張るはずだ。
でも今は、イザベルが支配するこの場が、もっと続けばいいと思っている。
「ダーリンさん。あなたは優しい人です。それはみんなが知っています。まだ知り合った月日は浅くとも、それをみんなが知っている。それってどういう事だと思いますか?」
「わからない」
「では教えましょう。それは月日が浅くても解るくらいあなたが優しいからです。チサトちゃんがあなたを好きでいる。クマモトさんがあなたを好きでいる。バータルさんがあなたを好きでいる。ディミトリーさんがあなたを好きでいる。イヴァンさん、シュウさん、カメンガさん、ジョージさん、デイジーちゃん、私。あなたと会話をした事がある人はみんなあなたの事が好きですよ?」
「なんでわかる?」
「それは私が私だからです」
なにを言っているのだろう?
そう思うはずなのに、いつもなら意味がわからないと鼻で笑うはずなのに。
「あなたの担当のアナナキさんも、あなたの事が大好きです。なぜだか解りますか?」
「わからない」
「あなたがいつも心を通わせてくれているからです。話す相手の心理を見ているからです。傷付けないように努力している。ましてや守ろうとしている。そう伝わるんです。それが明確にわかっている人は居ないかもしれない。でも、それは明確にならなくてもわかるんです。そうでしょ?デイジーちゃん」
「まぁ、嫌な奴とは思わない」
僕の足元から聞こえる声。
「今のは良い印象ってことです。デイジーちゃんは素直じゃないから」
スッとなにか発言しそうな感覚を足元から感じたが、それはすぐ消えていった。
「あなたが私達を好きでいてくれるように、私達もあなたの事が好きです。中でもとびっきりの愛をあなたに送っているチサトちゃんは、私達が頭で予想する何百倍もあなたの事が好きです。チサトちゃんは変わっていますか?」
「変わってない」
「チサトちゃんは変わっていますか?」
「変わって、ない」
「ダーリンさん?あなたはチサトちゃんを愛していますか?」
「愛してる」
今度は左側から息を飲む音がした。
「ではもう一度聞きます。チサトちゃんは変わっていますか?」
「変わって、る」