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剣閣の斜陽

作者: 史燕


「今日も陽が沈むな」


そう言ったのは同僚の宗預だった。

廖化が毎日この時間にこの場所に来る。それを知っての言葉だ。


「ああ、そうだ。今日も、そして明日も、あの山の向こうへ、必ず陽は沈む」


廖化は宗預の方へ顔を向けることもせず、じっと同じ方角を見つめたまま、事も無げに言った。

時は景耀六年、木々の葉も真っ赤に染まりきった九月の事である。


廖化と宗預の二人が空を眺めていると「えいっ」「おうっ」という声が聞こえてきた。


「大将軍閣下は今日も精が出るようだな」


宗預は苦虫を噛み潰したような顔でそう言った。

廖化自身も表情が強張るのが分かった。

気にするな、というのが無理なのだ。

――蜀の大将軍姜伯約。

諸葛孔明の後継者直々の調練と聞き、年若い兵士たちは毎日嬉々として身体を苛め抜いている。

調練の掛け声も、まだ声の調子の変わりきらない、幼さの残るものが少なくない。

それが、蜀漢の二人の宿将にとっては、とうてい気分のいい事実ではなかった。


「やはり、段谷の敗退が響いているな」


宗預がやれやれという風に首をすくめながら言った言葉に、廖化は小さく首を動かすことで肯定してみせた。


“段谷の戦い”


延熙十九年。

前年の十八年に姜維率いる蜀の北伐軍は魏軍を大いに破り、雍州刺史王経を追い、数万の敵兵を打ち取った。これにより、蜀軍は魏の西方に向け大いに力を伸ばし、重要都市である長安さえも脅かす状況となった。

これに危機感を抱いた魏は、鄧艾を安西将軍に任命し、姜維に備え西方の凉・雍二州を固めさせた。

一方の姜維はこの機に乗じさらに勢力を拡大させようと、再度北伐を実行する。しかし、鄧艾は姜維の行動を先読みしていたため、蜀軍は進軍の途上で立て続けに強襲され、最終的には二桁にのぼる将と一万を超える兵を喪失することになった。


「あの敗戦が、全ての始まりだった」


宗預の言葉に廖化は思い起こす。

「あれは、もう七年も前になるのか」と。

段谷の戦いの後、蜀内部は大きく変わった。『国が傾く』というのはこういうことなのかと、廖化も大いに驚いたものだ。

主戦派の姜維はまるで馬鹿の一つ覚えのように「北伐、北伐」と繰り返し、都合三度に及ぶ北伐を行ったが、遂に成果を得ることはなかった。

廖化もまた、「このまま北伐を続けても徒に兵民を疲弊させるだけだ」と真っ向から廖化に意見した一人だ。

姜維の調練に際して、年若い兵の声が壮年の兵たちよりも目立つというのは、そういうことだ。

内務においては蒋琬・費禕なき跡はまとまりを欠き、宦官の黄皓が皇帝劉禅の寵愛を受け国政を壟断し、遊蕩にふけっている。

心ある臣も少ないわけではないが、遠征で衰えた国力を回復するには、彼らの奮闘だけでは力が及ばなかった。

度重なる北伐と国政の停滞。

佞臣の跳梁に主戦派と非戦派の埋めがたい溝。

そういったいかんともしがたい歪な構造を抱えたまま、廖化と宗預、そして姜維はここ剣閣の城塞に詰めていた。


「諸葛の坊ちゃんはどうかね」


ふと宗預が漏らした。

彼が言ったのは丞相諸葛亮の遺児、諸葛瞻のことである。

若く才に溢れた将だ。

少なくとも廖化はそう思っている。


「『七十の年寄りが雁首揃えて何が悲しゅうて若造に頭を下げにゃならんのだ』そう言ったのはお前ではないか」


思わず吹き出しそうになりながら廖化は言った。

これは黄皓の影響力は依然として排せないものの、清流派と言える臣下が一致して若い諸葛瞻を推し、政務の統轄を任せたときのことだ。

廖化は宗預と一緒に諸葛瞻に挨拶へ行こうと誘ったのだが、宗預はそう言って頑として動こうとしなかったのだ。

武官の説得に一番走り回ったのは宗預自身だというのに。


(結局先帝陛下と丞相が忘れられないのだな)


廖化は、自分自身も含め、蜀の老臣たちをそう評価している。


「……早駆けを、したんだ」


ポツリと、廖化は言った。

宗預は黙って話の続きを待った。


「まだ、新野にいたころの話だ。玄徳様と、雲長様と、翼徳様と、孔明様と……」

「なぜか『そこにいたから』という理由で、私も」


あれは翼徳様だったかな、と廖化は目を細めた。


「何となく場違いな気がしたもんだ。ただの主簿が主君と将軍閣下と軍師様のお供だぞ」

「玄徳様と義兄弟二人のお話に、自分の黄巾時代の話」

「雲長様の千里行がどれだけ無茶苦茶だったのかを孔明様と二人で聞かされたんだ」


語りながら、自身の口元が緩むのを隠せないでいることを、廖化は悟った。


「今考えれば、身内以外でお三方をよく知る自分の口を通じて、まだなかなか馴染めずにいる孔明様への橋渡しをさせたんだろうな」


最後にクシャっとしわだらけの相好を崩しながら廖化は話を締めくくった。


「愉しかったなあ」

「……そうか」


宗預は廖化の話を相槌も挟まず最後まで聞き遂げた。

なぜなら宗預から見ると、廖化は自分ではない誰かに向けて、いや宗預もよく知るあの方々へ向けて語りかけていたのが分かったからだ。


四ヶ月前、鄧艾と鍾会の軍がここ剣閣の向こうにある陽安関を陥とした。

風の便りで諸葛瞻による援軍派遣がまたしても却下されたのだという。

だが、廖化は決してこの剣閣を陥とさせるつもりはなかった。

この向こうには、孔明が、雲長が、翼徳が、そして玄徳が血と涙を流しながら築き上げた蜀のすべてが詰まっている。

彼らと轡を並べた数少ない宿将の一人として、たとえこの身の血潮がすべて塵と消え去ろうとも、魏の兵一人たりとも通すつもりはなかった。


「陽が、沈むな」


廖化は再び、そう繰り返した。


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