赤い糸電話
(一)
島村花絵は布団に入る前、いつものように夫の仏壇の前に座り、高志の遺影を見つめ手を合わせた。
「お父さん、おやすみなさい」
高志が癌で亡くなって一年が過ぎた。忙しない日々に追われて一周忌が過ぎ、少し落ち着いてきた花絵の心の隙間を狙うように、高志のいない喪失感がじわじわと入り込んでくる。八畳の和室に並べていた二つの布団が一つになり、埋めることができない空間が一人ぼっちだと囃し立てる。あの日から睡眠薬を手放せない日々が続いている。
「もしもし、もしもーし」
やっと寝付いた花絵の耳元に囁くような声が聞こえてくる。えっ、電話?無理やり薄目を開けて見回すと、枕元に赤い糸電話が置いてある。そっと手に取り耳に押し当てると静かな声が聞こえてきた。紛れもなく高志の声だ。
「お父さん、本当にお父さん?悪戯電話じゃないの?」
「なんだ、もう俺の声を忘れたのか?いや、なんだか眠れなくてな。元気そうじゃないか」
「元気なわけないでしょう。お父さん、ねぇ、本当にお父さんなんでしょう。お父さん来て、今すぐ私のそばに」
花絵は涙が次から次と溢れ、声が掠れた。
「お前は相変わらず泣き虫だな、気は強いのに。なぁ覚えているか、お前に初めて会ったときのこと。俺が幼稚園の教室に入った時、確か月組だったかなぁ、お前が男の子に玩具を取られながらも手を離さず、泣き喚いていたよな。俺は引っ越してきて初めて幼稚園に行った時だった。何となく不安な気持ちでいたけど、お前の泣き声に圧倒されてポカンとなり、おかげで不安がどこかに消し飛んだよ。ねぇ、その糸電話覚えているか?幼稚園の工作で作ったやつだぞ、年長組のときだったかなぁ。俺は青い折り紙で作りたかったのに、お前は赤がいいと言い張って、結局赤い糸電話になった。なにしろ二人で一つの糸電話を作るということだったからな」
「それじぁ、まるで私が我がまま言ったみたいじゃない。あの時、お父さんだって赤でもいいよって言ってくれたでしょ」
「そうだったなぁ。あの頃のお前は目がくりくりしてて、本当に可愛かったからな。そういえば、三つ編みにしていたおさげにも赤いリボンがついてたよね。よっぽど赤が好きだったんだな。そうか、あの頃から俺はお前の尻に敷かれっぱなしだったのか。それに、俺の初めてのキスを強引に奪ったのもお前だったしな」
「嘘、そんなことした覚えないわよ」
「なんだ忘れたのか?俺がジャングルジムから落ちて泣いたら、お前が大丈夫よって言うなりチュとしたんだ。俺はびっくりして泣くのをやめたよ」
「そうだったかしら。そういえば小学校の夏休みの工作、お父さんが全部作ってくれたわね。お父さん手が器用だったから。あれなんだっけ。カラクリ箱みたいな凝った家だったわ、赤い屋根の家。確か学年で金賞貰ったけど、クラスの担任だった原田先生は島村は工作が上手だよなって、私の顔見てにやっと笑ったのよ。でも、何も言わなかったけど、完全にばれてたわね」
「俺はああいうものを作り出すと夢中になるんだよ。おかげでお前の工作に時間がかかって、俺のやつは中途半端になっちゃったんだよ。それにしてもお前とは腐れ縁かな。中学まで一緒だったが高校は別々になったし、他の女の子と会えるチャンスだったのに、よりによって男子校に行く羽目になるとは思わなかったよ」
「あら残念だったわね。でも、お父さんが選んだんでしょう。機械専門の工業高校を」
「俺は昔から機械いじりが好きだったからね。でも、まさか俺が行きたかった高校が男子校だなんて。今と違ってあの頃は男子校や女子高に分かれている学校が多かったからな。男臭い中にいたから、お前の誘惑に負けてしまったんだよな。ほら、あの夏、一緒に花火を見に行ったあと遅くなったからお前を家まで送っただろ。その時、お前の部屋で俺は襲われたんだ。そして貴重な童貞を奪われた」
「違うじゃない。やあね、私がお父さんを襲っただなんて。あの日、両親が親戚の家に行ってるから遅くなるって言ったら、急に私を押し倒したのはお父さんでしょう。それこそ、私の処女を奪ったのよ」
「まあ、今さらどうでもいいだろう、お互い愛し合ったんだから。後悔しなかっただろう、俺みたいないい男と結婚出来たんだから」
「ええ、幸せだったわ。ただ、最初の子供を流産したのは私の不注意だったわ。昔から身体が丈夫だったから、無理しても大丈夫だって思い込んでしまって。もし、男の子だったら一緒に酒が飲めるなってお父さん楽しみにしてたのよね。そのときの後悔や悲しみは今でも消えないわ、産んであげられなかった子供に申し訳なくて。その後なかなか子供が出来なくて落ち込んでいたとき、お父さんが二人だけの人生でもお前となら幸せだって言ってくれたでしょう。その一言が私を救ってくれたのよ。その後、奈緒が産まれてきたときの嬉しかったこと。産声を聞いて二人で泣いたよね。あの日のことは一生忘れないわ。でも、時間が経つのは早いわね。その奈緒も安岡和人さんと結婚して一児の母になったもの。舞が産まれて私達は、じいじとばあばになったのよね。子供を授かり、さらに孫まで授かった。こんなに幸せで怖いくらいだったのよ。その恐れがお父さんの身体に現れるなんて。早過ぎるでしょう、まだ、六十九歳で逝くなんて。この、一年寂しくて辛かったの。これから一人で暮らしていくなんて辛すぎるわ。ねえ、お父さん私もそっちに行きたいわ」
「別に一人じゃなくても、いい奴がいたら再婚してもいいよ。七十歳なんてまだまだこれからだよ。まあ、俺ほどの男がいるとは思えないが」
「なに馬鹿なこと言ってるの。お父さん以外に好きな男ができるわけないでしょう」
「そういえば、奈緒が一緒に暮らそうって言ってくれてるんだろう。それなら一人じゃないよ」
「奈緒は、この家を壊して二階建ての家にしようって言うのよ。確かに今の平屋じゃ一緒に住むには狭いけど。でも、苦労して建てたこの家はお父さんとの思い出が隅々まで詰まっているのよ。この家を壊すくらいなら一人で住むわ」
「俺との思い出はお前の中にあればいいよ。形ある物はいずれ壊れてなくなるもんだ。和人君もいい奴だし、みんなで楽しく暮らしてくれたほうが俺は安心だよ」
「でも、私は今すぐお父さんに会いたい。ねぇ、会いたいわ」
「焦らなくても、お前もいつかはこっちに来るんだよ。こっちに来るときは、土産話をたくさん持ってきてくれ。和人君のことや奈緒や舞のこと。長生きしてひ孫の話も聞かせてくれ。なんだったら玄孫まで頑張れ。俺はお前がこっちに来るときは、必ず迎えにいくから心配しなくてもいい」
「私が長生きして、皺皺で腰の曲がったお婆ちゃんになったら、お父さんは私が分からないでしょ」
「お前がどんなに歳を取っても俺には分かるよ、必ず迎えに行くから」
「じぁあ、お父さん、私を迎えに来てくれたときは、お姫様抱っこをして、キスしてくれる?」
「分かったよ。お姫様抱っこか。新婚旅行以来だな」
「キスも忘れないでね」
「勿論。お前が辛いときには、すぐに俺が駆けつけてそばにいくから大丈夫だよ。でも、笑って暮らしていたら俺も嬉しいよ。残りの人生を大いに楽しんでくれ。愛してるよ」
朝靄の中で目覚めた花絵は、なぜか久し振りにすっきりとした気分だった。
その日の午前十時頃、奈緒から電話がかかってきた。
「お母さん、おはよう。同居のこと考えてくれた?」
「ええ、一緒に住もうと思うわ」
「本当、よかったわ。それなら私もお母さんのこと心配しないで済むし。このところお母さんが元気をなくしてたみたいだったから、和人さんと心配してたのよ」
「でも、私がもっと歳をとって和人さんやあなたに迷惑掛けるかもしれないわ。ボケたり、病気になったりするかもしれないし」
「お母さん、家族でしょう。何があっても助け合うものよ。それに、お母さん当分ボケている暇はないと思うわ。育児、手伝ってね」
「育児って。舞は八歳でしょう」
「もう、子供は出来ないって諦めていたけど、今日、朝一番で病院に行ってきたの。男の子だって。今週の土曜日、そっちに行くから詳しい話はその時にね。それから夕食よろしく」
花絵は電話を切ると、すぐに仏壇の前に座った。
「お父さん、二人目の孫が出来たんですよ、男の子だって。お父さんへの土産話が増えましたよ、待っていて下さいね。お父さん、幸せな人生ありがとう」
(二)
「お母さんは危篤状態です。ご家族の方はお別れを」
総合病院の個室で医師は静かな声で奈緒たちに伝えた。酸素マスクを付けられた花絵がまだ生きているのを知るのは、辛うじてベッドの横の心電図がおぼつかない曲線を示しているからだ。
「お母さん。ねぇ、お母さん」
奈緒が耳元で声を掛ける。それに呼応するように、僅かな反応が目元を引きつらせた。花絵を取り囲むように、奈緒の隣に和人、孫の諒そして結婚して秋元となった舞と夫の祐治、双子のひ孫の高太朗と琴絵。
「お父さん、聞こえますか?」
花絵は高志に話しかけた。
「なんだ、折角いい気持ちで寝てたのに」
「いやですよ。私がそっちに行くときは迎えに来てくれるって約束したじゃありませんか、忘れたんですか?」
「覚えているよ。もう、来るのか?」
「もうって。私は九十五歳ですよ。あれから二十五年も経ったんですよ」
「二十五年か。お前も頑張ったな」
「ええ、お父さんの言ったように頑張りましたよ。玄孫までは無理だったけど」
「幸せだっただろう。お前が辛い思いをしてたら、お前のそばにいくつもりだったが、俺の出番はなかったからな。暇すぎてぐっすり寝ていたよ」
「ええ、とっても幸せでしたよ。お父さんと二人で築いた家庭に家族がどんどん増えて、賑やかな大家族になりましたよ。でも、どんなに幸せでも、お父さんがいなければ完全に幸せじゃなかったの」
「それを言われても俺にはどうしょうもなかったからな。俺は、お前に出会った幼稚園の頃から幸せだったぞ。二人の初めての共同作業の赤い糸電話。ずっと切れずに繋がっていただろう」
「本当、私も赤い糸電話のおかげで寂しくなかったわ。いつでも、お父さんを呼び出せるって思っていたから」
「それじぁやっぱり、俺は幼稚園の頃からお前に手綱を握られていたんだな。お前が可愛いなんて思ったのが運のつきかぁ」
「いやだわ、運のつきだなんて。お父さんとはめぐり合う運命だったのよ。ねぇ、お父さん、そろそろ私がそっちに行くときが迫ってきたわ。話したい事がたくさんあるのよ。覚えているでしょうね、あの約束」
「勿論。キスが先か、それともお姫様抱っこが先か?でも、お前の話を聞いていたら、当分安眠できそうもないな」
心電図の曲線が一本の線になり、ピィーという音とともに、花絵の現世での時間が止まった。酸素マスクを外すと幸せそうな死顔に見えた。
「ご臨終です。時間は午後九時ちょうどです」
医師の抑揚のない声が個室に響いた。
「お母さぁん」
奈緒の泣き叫ぶような声を皮切りに、小さな個室にそれぞれの泣き声が響いた。
花絵の一周忌は滞りなく終わり、奈緒は仏壇に並ぶ両親の遺影を見て、手を合わせた。花絵は、あの世に行くときはお父さんが迎えに来てくれるのよっと、嬉しそうに奈緒に言ったことがあった。六十台の父と九十台の母の遺影。お父さん、ちゃんとお母さんを迎えに来たのね、約束通り。お母さんの幸せそうな死顔がそれを物語っていたもの。
「おじいちゃん、おばあちゃん」
孫の高太朗と琴絵の賑やかな声が玄関の方から聞こえてきた。
「お母さん、ここにいたの、お邪魔してます」
舞が和室に入ってきて、仏壇に手を合わせた。時間が舞を母にし、奈緒を祖母にした。父の高志と母の花絵の歩んだ時間にリンクしながら、奈緒の時間そして舞の時間へと続いていく。
「今日、夕食を食べていくわ、祐治さんも仕事が終わったら来るから」
奈緒は、はいはいと言いながら立ち上がり、孫のいるリビングへ行った。