森での邂逅
実習当日は、結局森の中の探索で一日が終わってしまった。
森の中でも比較的安全そうだと目星をつけていた場所にそれぞれのテントを張り、夜間の見張りを交代で行いながら、三人は無事に一夜を明かしていた。
朝になると教師陣の使い魔のカラスが一日分の食料が入った圧縮器を届けにきたので、三人は無事にそれを受け取った。その一連の流れを通して、やっと野外実習での一日の過ごし方というものが見えてきたのだった。
あとは残り三週間と六日、この流れを毎日繰り返すことになるのだろう。
昨日から森の中を縦横無尽に移動しては幾度となく森の外に出る機会をうかがっていた三人だったが、魔法の使えない身では、やはりどう考えても開けた場所に出ていくことは不可能だった。
ひとしきり探索してわかったのは、森の中には最初に遭遇したグリーンマンの他にも、ゴブリン、ピクシー、コボルトなどの下級仮想精獣の代表格とも言うべきものたちが生息しているということだ。
ひ弱で臆病な彼らは必ずしも人間を襲うとは限らず、遭遇したとしても気性が荒い個体でもない限りは、向こうから逃げ出してしまうことも多かったので、無用な戦闘は極力避けることができた。
――とはいえゴブリンやコボルトなどは、弱い割には邪悪で卑怯な性格の個体が多いのも特徴で、油断しすぎると背後から強襲されて痛い目を見ることもあるため、魔法の使えない今のような状況では、特に注意が必要であった。
そして遠くから森の外の様子をうかがったところ、新たにリザードマンやライカンスロープ、セイレーンなどが辺りをうろついているのを確認した。いずれも普段の実践訓練では何度か戦って勝利したことのある中級仮想精獣だが、魔法を使わずに倒すことや逃げ切ることは、現実的に考えてほぼ不可能なレベルの相手だった。
外の様子をうかがっていた際に、珍しいものを発見したルビがマイスに向けて合図した。
「見ろよ、あそこ。リザードマンとライカンスロープが喧嘩してるぜ」
「仮想精獣同士の小競り合いか、久しぶりに見たな。種の性質や個体同士の相性が悪いと、仮想精獣同士でも争うことがあるとはいうが……」
「もしかしたらあの二体を創造したのは、ローナ先生とベッケル先生かもな。ほら、あの二人顔を合わすたびに飽きもせず毎回喧嘩してるだろ」
「はは、たしかに。違いない。真面目なローナ先生に不良教師のベッケル先生、水と油だものな」
ルビとマイスは、次第に実習攻略とは関係のない雑談をし始めるようになっていた。当初「余計な私語は慎むように」とソルエルとルビの二人に忠告していたのはマイスだったはずなのだが。彼は本来決して口先だけの男ではない。
マイスだけでなく、ルビの様子もいつもと違っていた。どこか落ち着きなくふわふわして気もそぞろだ。
男二人が魔法の使えない恐怖にさらされ続け、ゆっくりと少しずつ壊れ始めていたのだ。この気の抜けるような雑談は現実逃避か、それとも張り詰めすぎていた糸が切れてしまったからなのか、どちらにしてもあまり良くない傾向だった。
外はともかく、森の中にいるのはどうやら下級仮想精獣ばかりで、その中でも一番の強敵と思われるグリーンマンも、ソルエルの魔吸石で十分倒せる相手であるということはわかった。そういうわけで、森にいれば今のところ、ひとまずの脅威から身を守れるということは判明している。
ソルエルは疲弊しきった男二人のことも含めて熟慮し、思い切った提案を持ちかけてみることにした。
「考えたんだけど、春のあいだは下手に動かないほうがいいんじゃないかな。平原だとどこにも隠れようがないから絶対仮想精獣に見つかるし、中級以上との戦闘は避けられそうにないもの。
それに地図もなくやみくもに進んだところで、テラ・マーテルにはたどり着けないよ。夏になって魔法がちゃんと復活したら、ルビの風の飛翔魔法でテラ・フィールドを見渡してもらうことができるし、テラ・マーテルの位置の目星もある程度つけることができるでしょう?」
「そうだな……。下手に先を急いだところで、戦闘に負けちまったら意味ねーしな。スタート地点だからなのか、今いる森は目に見えて調整された弱い仮想精獣しかいねーけど、それでもこれ、下手打ったらマジで死ぬだろ」
「ああ、普通に死ぬ」
ルビとマイスの二人が納得している姿を見て、ソルエルはほっと胸を撫で下ろした。
「大丈夫。きっと他の班もみんな似たような状況だよ。春が終わらない限りは、とてもじゃないけど先になんか進めない。私たちA班だけが遅れをとるわけじゃないと思うから」
ソルエルの言葉で、ルビが思い出したように顔を上げた。
「他の班、か。そういや、他の連中はどうしてるんだろうな。俺らA班はこんなでも、ソルエルが魔吸石を用意してくれてたおかげでまだ十分助かってる。魔法断ちさせられる実習だったなんて、まさか予測できたやつはいないだろうし、そうなると他の班が今どうなってるのか、あんまり考えたくねーな……」
それにはマイスがすらすらと答え始めていた。
「B班のリュートはもともと魔法剣が得意だったから、魔法が使えなくても下級仮想精獣くらいなら彼の剣技で十分対処できるんじゃないか。ミナトもああ見えて魔法以外の武術にも長けているし、案外B班はそれほど困らずなんとかなっていそうだがな。
魔法断ちを行うことで、こういう部分により差が出て際立ってくるのは、身が引き締まる思いだな。魔法使いが魔法ばかりに頼りすぎると良くないというのは、こういうことか。……なんにしても、B班は総合的に見てクラスのエリートが集まっているな」
「他の班はどうだ?」
「他の班は……そうだな。B班以外の他の班のことは、私もあまり考えたくないな。私たち以上に凄惨な状況なのかもしれない」
マイスは顎に手を当てて考えてみた。
「C班は筆記試験での成績優秀者が集まった秀才班だが、その反動と言っては何だが体力面においてはみんなからきしだ。今の状況ではある意味一番心配な班だ」
「D班も別の意味でなかなかにやばそうだぜ。今からギスギスしてるのがもう目に見える。一番仲悪そうな班だろ。まずマギウスが何かと暴走して揉めてそうだしな。マーサは大人しいばっかりで自分の意見言わねーし、ジーニスは好きなこと以外はてんで無関心だし。あの班の良心というか要はレクタだな。レクタがいないとすぐ崩壊しそうだ」
「E班は……?」
ソルエルが小さくつぶやいた。
「E班、ねぇ……」
ルビが口を開きかけたとき、ソルエルが突然血相を変えて走り出していた。
何事かと目を瞬かせるルビとマイスだったが、すぐに二人とも状況を把握した。
ソルエルの駆けつけた先に、まさにたった今話題にあげようとしていた人物が、長い手足をだらりと投げ出した状態で、ぼろぼろに傷付いた身体を木の根元にすべて預けるように鎮座していたのだ。
E班のトゥーリだ。一目見て、彼が深手を負っているということはすぐにわかった。
「大変、早く手当てしないと」
ソルエルはリュックサックから大量の魔吸石を取り出すと、傷ついたトゥーリの傍らを取り囲むように手早く並べ始めた。
トゥーリは依然気を失っているようで、三人が近づいても目を覚ますことはなかった。長い睫毛を伏せてただかすかな吐息を漏らすだけの彼はひどく無防備で、思いのほかあどけない容貌をしていた。初めて教室で会ったときに、頑なまでに三人を拒絶していた人物だとは、今ではとても思えない。
まだ彼がどれほどの重傷を負っているのか一見しただけでは把握できなかったが、息があることにひとまずソルエルはほっとしていた。
「治癒魔法は特に自信ないけど、やるしかない。集中して……集中、集中……。えっと……〝照らし清めたまえ、汚れたるを。潤したまえ、渇けるを。癒したまえ、傷つきたるを〟――〈サーナフレーマ〉」
ソルエルは魔吸石に両手をかざし、必死で炎の治癒魔法に変換することを試みた。周囲に置かれた魔吸石が、より強い鮮やかな炎の色を発色し始める。
魔法発動において、呪文詠唱は必ずしも必要ではないが、詠唱することで人によっては集中が高まったり、成功のイメージへとより結びつけやすくなったりする場合もあるため、ジンクスのように用いられることが一般的であった。ルビは長々とした詠唱を嫌い、いつも必殺技のように略式呪文のみを叫んでいるし、マイスは基本詠唱なしでも魔法を使いこなせている。
ソルエルが必死に治癒魔法に専念しているあいだ、ルビとマイスの二人は、なすすべもなくそこに立ち尽くしているだけだった。下手に手を貸してソルエルの集中を途切れさせてもいけないし、それ以前に手を貸そうにも、現在の自分たちには何一つ魔法で何かを成すことができない。普段であれば、そこそこの治癒魔法くらい、二人とも訳なく使いこなせるというのに。
いくら友好的な関係ではない相手だったとしても、クラスメイトがこのような重傷を負っているというのに何の力にもなれないのは、人並みの正義感を持つ者であれば誰だってひどく打ちのめされる。ルビとマイスも例外ではなかった。
魔法を使えないということがどういうことなのか、本当の意味ではわかっていなかった。無力とは自分だけの問題ではなく、ときには他人を見捨てるしかなくなるということでもあったのだ。
もしソルエルが魔吸石を持っていなかったらと考えると、ルビとマイスはぞっとした。
そんな二人の心情など知る由もなく、ソルエルは大きく息を吐いて、汗で額に貼りついていた前髪をかき分けた。