野外実習スタート
ソルエルたちA班のスタート地点である任意ポイントまでは、フラギリス教諭が案内役を務めた。彼の主な担当科目は、魔法学の理論構築を突き詰める魔法研究論であり、実践的な授業からは退いて久しい、くたびれた気弱な中年教員だった。今ではもっぱら研究室に引きこもりがちである。
ソルエルたちはフラギリスのひょろ長い猫背を追って、針葉樹が多く群生する森の中を縫うように進んだ。
かりそめの春とはいえ、木々や草花は見事に青々とした葉を生い茂らせ、豊かな生気に満ちあふれていた。生命にとって、暖気はかけがえのないものなのだということをあらためて感じさせられる。この世界の外が、本当はまだ冬の真っただ中だということを、ソルエルたちはすぐに忘れてしまった。
道行く道には背の高い草木が無造作に生い茂り、似たような景色ばかりがずっと続いているので、まだ二十分ほどしか歩いていないにもかかわらず、もう元来た道がすでにわからなくなりかけていた。
ふと、フラギリスが突然足を止めて三人を振り返った。
「こ、ここがA班の任意ポイントになります……」
どうやらスタート地点に到着したらしい。しかし、三人は信じられないような顔で目を見張った。
「え……こ、ここですか? こんな、周囲の景色もよく見渡せないような、現在地も方角すらもはかりかねてしまうような森の中が、私たちのスタート地点なんですか?」
マイスが不満たっぷりな声をあげた。もっともな意見だ。
フラギリスはその抗議を受けて、焦ったように額に浮く汗をハンカチで拭った。
「こ、ここで間違いないですよ。おそらくスタート地点は、どの班もだいたいみんなどこかの森だと思います。見晴らしの良いところに出てしまえば、あっという間に仮想精獣に遭遇してしまいますから。
A班はたまたま入り口付近がスタート地点だったので徒歩で案内しましたが、飛翔魔法で教師にもっと遠くに飛ばされている班もあります。しかし、どの班も等しく公平に、遺跡テラ・マーテルからは同程度離れた距離が、任意ポイントになっているはずです」
少し落ち着きを取り戻したフラギリスは、周囲のうっそうとした景色を見渡してから言った。
「ここの森は中にいるとわかりにくいですが、全体を通して見れば、実はそれほど大きいわけではありません。足を滑らせてしまうような不安定な足場や穴もないですし、遭難するような深さもない。
大昔に流れた溶岩が固まった地層がある影響で、磁場が狂っている場所もあるにはありますけど、地面からなるべく離せばちゃんと方位磁石も使えるので、迷って深刻な状況になることもまずないと思います。身を隠すにはうってつけの場所ですよ」
「フ、フラギリス先生~……」
実習開始直前になり、不安げな表情に情けない声でルビがフラギリス教諭を呼び止めた。おそらくは、この優しい教師をこの場に引き止めたがっているのだ。
しかし、フラギリス教諭はそれを悲痛な面持ちで拒んだ。
「ご、ごめんなさい、ククルビタ君。もうそろそろ実習開始時間になります。これ以上僕と話していると君たちが失格になってしまいますから、僕はもう行きますね。みなさんの健闘を祈ります……」
そう言うと、猫背の教師は逃げるようにソルエルたちに背を向けて、そそくさとこの場から退散していった。あっという間に彼の姿はもう見えなくなってしまった
ひょっとすると、フラギリス自身もテラ・フィールドの中にいるのが怖くて、一刻も早くこの場を立ち去りたかったのかもしれない。もう何年も魔法の実践現場から退いている彼の現状を鑑みれば、気持ちはわからなくもないが。
しかし、一切の魔法が封じられてしまう場所に置き去りにされた生徒たちのほうが、その何倍もの恐怖と不安に苛まれているのは、まず間違いないだろう。
「逃げ出したいのはこっちのほうだぜ……」
ルビがため息混じりに嘆いてみせた。
「いろいろ歴代の噂話は聞いてきたけど、今年の実習は特に風変りなんじゃねーか。単なる遺跡を四週間もかけて探させた挙句に、そこでラスボスを倒すだけ。しかもクラス全員で協力しても構わない、なんて。早くたどり着いたもん勝ちってわけでもねーみてーだし、魔力経験値の競い合いってわけでもねーし、評価方法がいまいちよくわからねえ。
おまけに魔法実習の試験なのに、一週間も魔法が使えないとか。歴代の課題は、多少その年のカラーがあるにせよ、だいたいが魔力経験値の競い合いとかバトルロイヤルとか、基本は班対抗戦っぽかったじゃん」
「たしかに、今年は少し毛色が変わった課題なのかもしれないな」
ルビの言葉にマイスも同意する。
「生徒を競わせるというよりは、どちらかというと班同士で協力し合って課題をクリアするように、と学園長先生も強く言い含められていたしな。……まあ、他の班のことまで気を回していられる余裕が、果たしてあるかどうかは別として。
なんにしても、私たちは今魔法が使えないんだ。どこに仮想精獣が潜んでいるかわからない以上、あまり騒ぎ立てて無闇に敵を引き寄せるのは得策ではない。ひとまず直近の作戦を立てたら、不要な私語は控えたほうがいいかもしれないな」
「へいへい、無駄口たたいてさーせんした。……で? とりあえずこれからどうするよ」
ルビが問うと、ソルエルが遠慮がちに手をあげて小さな自己主張を示した。
「あの、ひとまずこの森が本当に安全かどうかを調べてみるのはどうかな。身を隠すにしても先へ進むにしても、この辺り一帯がどういう土地なのかどういう仮想精獣が潜んでいるのか最低限把握しておかないことには、ちゃんとした作戦も立てられないし、逃げ道だって咄嗟には見つけられないかもしれない。魔法が使えないうちは正面からの戦闘は避けるべきだし、逃げるためのルート確保がまずは最優先だと思うのだけど。余裕があれば、道具で罠をしかけておくこともできるし」
ソルエルの提案にマイスとルビは二つ返事で頷いた。
「そうだな、私もそれがいいと思う。このままじっとしていてもらちが明かないし、まずはこの辺り一帯を軽く調べて現状を把握しなくては」
方位磁石を用いて方角を見失わないようにしながら、三人は森の中を散策し始めた。一度通った道がわかるように、目立つ大木には短剣で印を刻んでいった。何が出てくるかわからないため、あまり派手な音を立てないように、三人は慎重に歩を進めた。
背の高い木々が日光を遮るため日中でも辺りは薄暗く感じたが、時折木漏れ日が差し込んでくる場所は暖かく心地が良かった。
初めのうちは森の奥深くへ分け入るばかりにしか思えなかったが、わずかにたどれる小道があり、そこを道なりに行けば、うっすらと遠巻きに外の光が見えてくる箇所もいくつか見つけた。言われた通り、体感しているほどには大きな森ではなかったのかもしれない。
ひとまず森の出口を見つけたことで、三人は安堵していた。
しかし、ほっとしたのもつかの間、遠くの空を旋回している緑色の生物らしきものを目にして三人はぎょっとした。
テラ・フィールドに来て初めて目にした仮想精獣――ワイバーンだった。遠目からでも十分にその姿を視認できるほどには、ワイバーンは巨大なドラゴンだ。
ワニのように長く伸びた顔、鷲のような二本の足、その背には巨大なコウモリの翼を持っている。多くの竜系の仮想精獣と同じように、炎を吐く獰猛な性質で、見つかればすぐにでも襲いかかってくるだろう。
三人はそれを思い浮かべて息を呑む。
「ワイバーンか……。魔法が使えないってのに、先生たちマジで容赦ねーな。魔法が使えるときでも、あれは倒すのにかなり骨が折れるやつだぞ。これは森から出なくて正解だったかも」
「そうだな……。森の外にはあんなのがうようよいるのか、それとも今私たちがたまたま大物を見つけただけなのか。後者であってほしいが、もう少し見極めが必要だ。ひとまずいったん森の安全そうな場所まで戻ろう」
マイスの提案にソルエルとルビはすぐに頷いていた。
たった今恐ろしいものを目の当たりにして、歩を進めていく中で三人が思ったことは、自分たちが少人数であることが、現時点では意外にも有利に事が運ぶ流れになっているのかもしれないということだった。
特に身を潜めて移動しなければならないような現状であれば、なおのことそうだ。
またメンバー間が普段から親しい間柄で、意思疎通がスムーズに行えるということも大きな強みだった。仲の悪い者や価値観の異なる者同士だとこうはいかない。きっと些細なことでも方針の違いでぶつかり合うか、少しずつたまっていく不満を誰かが我慢するかのどちらかになるだろう。
昼過ぎまで森の中を探索して回り、そこそこ疲労も蓄積してきたところで、三人は一旦休息をとることにした。
散々歩き回ったが、森の中ではまだ一度も仮想精獣に遭遇してはいない。この辺り一帯は、どうやら比較的安全だろうと判断を下したのだ。
ソルエルは荷物の中から小さな黒い立方体の水晶のようなものを取り出した。実習開始前に各班に配布された圧縮器だ。この中に、野営に必要な道具や生活必需品、そして本日分の携帯食などが、その名の通り圧縮されて入っている。中身を取り出すのは簡単で、取り出したい品を思い浮かべて念じるだけで良いのだ。
ソルエルはその中から、昼分の携帯食だけを取り出して、ルビとマイスに手渡した。大事なものなので紛失したときの責任は重く、その重責を分担するために、持ち運びする担当者は日ごとに変更しようという取り決めを班内で話し合って決めた。今日はソルエルの当番というわけだ。
この圧縮器のおかげで大荷物を楽に持ち運びすることができるのであり、いつ戦闘に突入するかわからない今のようなときこそ、特に重宝する便利なアイテムだった。
この圧縮器のような魔法道具は、四季外魔法にカテゴライズされている空間魔法を使うことによって生成される、大変貴重なものだった。
四季外魔法とは、春夏秋冬四つの四季魔法をすべてマスターした魔導師だけが、さらにその上を目指すことによって習得できる高位の魔法であり、国内はおろか国外でも扱える者は非常に少ない。
よって、この圧縮器も個人で購入すればそれなりに高価なものなのだが、魔法学園という特殊な環境下においては、入学祝いに一人に一つずつこの圧縮器が与えられることになっている。
これ一つあれば、数人分の大荷物も長旅の道具も楽に持ち運ぶことができるため、大変優れた魔法道具なのだ。もちろん今回の実習でも、教師陣から配られた圧縮器とは別に、三人はそれぞれ個人の荷物を自分の圧縮器に収めてこのフィールドに持ち込んでいた。
――にもかかわらず、ソルエルが今背負っているリュックサックはなぜかパンパンだった。不格好にも、チャックが今にもはち切れそうになっている。
パサついた固形の携帯食を食みながら、ルビが奇妙なものを見るような目つきでソルエルに言った。
「なあ……お前のリュック、何でそんなにパンパンなんだ? 荷物は圧縮器に十分入ったろ」
「それが入らなかったんだよ。圧縮器に入りきらない分も欲張ってなんとか持ってこようとしたら、こんなことになっちゃって」
「はあ? 圧縮器に入りきらないって、どんだけの大荷物持ってきたんだ」
「あ、これはね――」
ソルエルが説明しかけた、そのとき。彼女の背後で何かがゆらりとうごめいた。
マイスがそれを目撃して、咄嗟にソルエルとルビに向かって危険を知らせた。
「後ろ、何かいる!」
「え?」
マイスの緊迫した様子に、ソルエルとルビもすぐさま臨戦態勢に入った。
いち早く異変に気づいたマイスは、実に見事と言ってよかった。なぜなら一見するとそれは、森林の風景にすっかり溶け込んでしまっているのだから。