魔法使いとして、人として
久方ぶりに空は美しく晴れ渡っていた。
これまでほとんど毎日降り続いていた雪が突然ぴたりと止み、気温もわずかながらに上昇している。残雪や肌寒さはまだとどまっているものの、とても気持ちの良い朝だった。
生徒たち一人ひとりが特別な想いを抱きながら、それぞれの目覚めを迎えていた。ついに、野外実習当日がやってきていた。
彼らはいつもの学生服をきっちりと着込み、その上からゆったりとした袖広の黒のローブを羽織る。
グランツ・アカデミーの学生服には特殊な魔力コーティングが施されていて、見た目よりも遥かに高い防御力を誇る。実際にどんな防具よりも優れた戦闘服であるといえた。
これから戦地に赴くと言っても差し支えない生徒たちにとって、この制服はこれ以上ないほど拠り所となる存在だった。
あらかじめ教師陣から指示があった時間・場所にクラス全員が時間通りに集合する。
ハイスクール二年生の野外実習が行われるのは、グランツ・アカデミーが誇る敷地内最大の多目的私有地〈テラ・フィールド〉。
その名に違わぬ果てしなく広大な土地で、テラ・フィールド内には平原、山、谷、川、湖、森、砂漠、洞窟など、ありとあらゆる自然地形が人工的に模されて敷地内に集約されている。ないのは海ぐらいなもので、単純に土地の広さだけなら、大きな町がいくつも作れてしまうほどには雄大な私有地エリアだった。
テラ・フィールド敷地内は高い壁で周囲を覆われており、また結界魔法もいたるところに張り巡らされているため、普段は関係者以外がそこに足を踏み入れることはできないようになっている。
ハイスクール二年生になって初めて、このテラ・フィールドに入ることを許された生徒たちは、そのスケールの大きさに圧倒され、ただただ息を呑んだ。今日からこの広大な土地で、四週間という長い期間を、それぞれの班で過ごすことになるのだ。
これから実習でどんなことをさせられるのか、ここで何が待ち受けているのかなど何一つ知らされていない生徒たちは、大きな不安と期待を胸に秘めて、目の前に広がる雄大な草原や森をただ見つめることしかできなかった。
結局班構成は、以前配布されたあのプリントに記された内容のままで、ついぞ変更が加えられることはなかった。当然あの転校生は一人班構成のままだ。
謎の転校生トゥーリがこのハイスクール二年生のクラスに加わってから、今日で数日が経過したが、トゥーリはまだクラスの誰ともまったく言葉を交わしてはいなかった。たったの一言も。
ソルエルたち三人に対してだけではなく、クラスの誰に何を話しかけられようとも、どういうわけか、徹底して無視を決め込んでいたのだ。
ソルエルたちが彼に出会った翌日、担任教諭のローナが、トゥーリをクラスメイト全員の前で紹介した。そのときにわかったことだが、トゥーリはどうやら生まれつき言葉が話せないのだそうだ。
口のきけないミステリアスな絶世の美男子転校生。そのなんとも謎めいた魅力を放つトゥーリの登場により、案の定初日の授業は荒れに荒れ、マイスが憂慮していた通りとなった。
トゥーリの美貌を羨むもとい妬む男子生徒たちの地を這うような恨み言よりも、女子生徒たちの熱気を孕んだ黄色い歓声の方が圧倒的に大きいのは当然のことで、それが授業を荒らす一番の原因でもあったわけだが、しかしそのような事態も長くは続かなかった。
というのも、トゥーリがあまりに他人を拒絶し続けまったく関心を示そうとしないので、女子生徒に限らず根気強く話しかけ続けていた社交的な者たちも、最終的にはみな音をあげ、もう誰もトゥーリに話しかけようとする猛者はいなくなってしまったのだ。
そして、トゥーリ自身も関わってくる者がいなくなったことで、とげとげしかった態度や表情が、見るからに軟化していったのだった。そこまで人を避けたがっていたのかと、クラス全員が驚嘆していた。
これほどまでに彼が人と関わろうとしないのはなぜなのか。クラスの者が不振がって教師陣を質問攻めにしたが、いまいち明確な回答は得られなかった。教師陣もどうやら、彼のことはあまり知らされていないようだ。
いくら言葉が話せないとはいえ、その気になれば他人とコミュニケーションを取る方法など他にいくらでも考えつくわけで、話ができないから他人を拒絶する、という結論には必ずしも結びつかないものだ。つまり、これは単純に本人の問題に過ぎないのだろう。
ソルエルは、彼が氷の壁を作ってまで自分たちを徹底して遠ざけたことを思い起こしていた。あの後、怒り狂ったルビをなだめるのはもう大変だった。
学園内では、訓練以外での私的な攻撃魔法の使用はもちろん禁止されている。たとえトゥーリがその校則を知らなかったとしても、魔法使いに生まれた者ならば通常の感覚として、そういった倫理観を持つべきなのは確かだった。
逆に言えば、そうまでしてこちらを拒みたかったということなのか。
ああも完膚なきまでに拒絶されてしまっては、もはや取りつく島もなく、さすがのソルエルも彼を班に誘うことは諦めるしかなかった。
ただ、純粋に彼のことは少し心配でもあった。これから実習でもクラス内でも、本気で誰にも頼らず一人でやっていくつもりなのだろうか。そんなことが可能なのか。
(……ダメだ。人の心配なんかしてる余裕なんて、今の私にはない。しっかりしなくちゃ)
ソルエルはかぶりを振って、思考を切り替えることに努めた。
定時刻になり、いよいよ各科目を担当している教師陣が、生徒たちの前に集まり始めた。
そして、このアカデミーの創設者にして学園長であるウルリーケ・テナーが生徒たちの目の前に現れると、騒がしかったこの場は、一瞬にして厳かな空気に包まれていた。
魔法使い・魔導師であれば誰もがその偉大さに憧れ、恐れおののき、純粋に敬意をはらう対象――それが国一番の魔導師アルス・マグナという存在だった。
普段は授業に直接携わることのない彼女だが、このハイスクール二年生の野外実習だけは、毎年彼女が総括責任者として指揮をとることになっている。それだけこの実習が、重要なものであるということを示していた。
白髪の老婦人は生徒たちの顔を一人ひとり見渡してその緊張を読み取ると、すぐに柔らかく微笑んでいた。
「みなさん、おはようございます。長く吹雪いていた雪も止み、ぽかぽかと気持ちの良い朝になりましたね。天候にも恵まれ、誰一人欠席することもなく、ここにこうして全員で集まることができました。みなさんが幸先の良いスタートを切れることを、私は嬉しく思います」
生徒たちの表情は真剣そのものだった。アルス・マグナの言葉を一言も聞き漏らすまいと、熱心に耳を傾けていた。
「みなさんの中には、もう気づいている人もいるかもしれませんね。今日がどうしてこんなに清々しく穏やかな気候になっているのか。まるで春が訪れたようだとは思いませんでしたか? そう、春です。これはまさしく春なのです。学園の敷地内の気候を、空間魔法で春になるよう調整しました」
途端に生徒たちがどよめきざわついた。アルス・マグナがとんでもないことをさらりと言ってのけたからだ。
この学園の中だけを春にする――そんなことが本当に可能なのか。
「順を追って説明しましょう」
彼女はゆったりとした口調で話を進めた。
「今から開始する野外実習は、みなさんも知っての通り四週間ありますね。その中で一週間ごとに季節が移り変わる仕組みになっています。初めの一週目は春、二週目は夏、三週目は秋、そして最後の週は――この空間魔法を解きます。つまり、現在の冬に戻すということです。みなさんは誕生時期で、それぞれの得意とする四季属性が定められていますね。みなさんが魔法の実力を最大限に活かせる季節――好季が、必ず一週間は平等に巡ってくるということです」
「なるほど。だから今日は、朝から魔法の調子がすこぶる良かったのか」
D班の春魔法使いのマギウスが、納得したように独り言をその場でつぶやいた。しかし、存外彼の声は大きく、すぐにアルス・マグナにその発言を拾われていた。
「そうですね、その通りです。この季節の変わりゆくテラ・フィールドの中で、みなさんには、これから野外生活を営みながら、四週間という期間を使って、このフィールドの中心部に位置する遺跡〈テラ・マーテル〉を目指してもらいます。そこが今回の実習のゴール地点です。地図などはありませんので、みなさん各班で協力して、自力でたどり着いてください。
野営に必要なテントや寝袋などの必需品は、こちらで用意した圧縮器で軽量化したものがありますので、後ほど各班へとお配りいたします。
また、テラ・フィールド内には、アカデミー生であればおなじみの、魔法実技訓練用の仮想精獣も数多く放たれています。この実習のために、先生方が奮ってたくさん用意してくださいました。
弱いものからハイクラスのものまで、多岐にわたってフィールド内を徘徊しているでしょうから、みなさん心してかかってくださいね」
次々と新しく浴びせられていく情報の雨に生徒たちが若干戸惑っているあいだにも、学園長は話をどんどん先へと進めていった。
「道中で仮想精獣を倒せば倒した分だけの魔力経験値がいつものように手に入ります。それも実習の成績に反映されはしますが、あくまでテラ・マーテルにたどり着くことが目的ですので、仮想精獣狩りに固執しすぎないようにしてくださいね。
魔力経験値といっても、よほどのハイクラスの仮想精獣を倒しでもしない限り、ほんの微々たるものです。わざわざ探し出して倒すのではなく、道中で遭遇したものを払いのける程度で構いません。
目に余るほどの悪質な魔力経験値稼ぎ目的の仮想精獣狩りは、見つけた時点で即減点対象とします。無駄な魔力・体力を他で使うことよりも、班全員でできるだけ万全な状態でテラ・マーテルにたどり着くことのほうが、結果として評価され好成績に結びつくでしょう。
なぜなら、その遺跡テラ・マーテルにたどり着くことだけが目的ではなく、さらにその先に今回の実習の最終課題が待ち受けているからです。みなさんには、テラ・マーテルでハイクラスの仮想精獣との戦闘を行ってもらいます。
おそらくは、今までに一度も対峙したことのないような強い仮想精獣です。どんな仮想精獣なのかはこちらで直接教えることはしませんが、実習を進めていく中でヒントが隠されているかもしれませんので、テラ・マーテルにたどり着くまでにどんな仮想精獣なのかをつきとめて、事前に対策を練っておくのも良いと思います。
……そうですね、その最後に倒さなければならない仮想精獣は、未知目標とでも言っておきましょうか。その未知目標に勝利すること、それが今回の実習の最終課題です。
――さて、実習中のみなさんの動向チェックについてですが――」
学園長は銀色の細いバングルを取り出し、生徒たちの前に掲げてみせた。
「このバングルを右手首に常時はめていてください。一度つけると簡単には外れないようになっています。これでみなさんの位置情報と簡易健康チェックを、こちらで行うことができるようになります。
また、このバングルの位置情報をたどって、教師陣の使い魔がみなさんに毎日一回一日分の食料を届けますので、各班でしっかり受け取ってください。もし何らかのトラブルで食料を失ってしまった場合は、再配給することはありませんので、各自で調達するなりして対処すること。
このフィールド内はとても豊かな自然環境に恵まれていますので、野生動物や野草、木の実など探せば食べられるものはそれなりに見つかるでしょう。冬になるとそれもなかなか難しくなるかもしれませんが。とにかく、みなさん身体だけは壊さないようにして、がんばって乗り切ってくださいね」
学園長の話し方と笑顔があまりに優しく朗らかなので、うっかり実習自体も容易いものだと錯覚してしまいそうになる。生徒たちは、この老婦人のゆったりとしたペースに吞まれてしまわないように、必死で自らを律していた。
「学園長先生、一つ質問させていただいてもよろしいでしょうか」
クラスの代表然とした委員長のエリックが声をあげた。
「構いませんよ、エリック」
「ありがとうございます。仮に、四週間の実習期間が終わるまでに、そのテラ・マーテルにたどり着けなかった班や、さらにはテラ・マーテルで待ち構えている未知目標に勝てなかった班はどうなるのでしょうか」
「良い質問ですね。それはみなさんが気にかけていることでしょう。実習の難易度が現時点でまったく不明確である以上、誰もがそうなってもおかしくはないものね。
――そうですね……今出た質問の項目が達成できなかったということは、こちらが与えた課題をクリアできなかったということになりますので、実習終了後、学園側で厳正な審議を重ねたのちに判定を下すことになるでしょうが、おそらくは単位未修得となる可能性が一番高いでしょうね」
「単位、未修得……」
エリックが気圧されるようにつぶやいた。
「そう。この野外実習は必修単位ですので、未修得であれば必然的に次学年に進級することはできません。ですので、みなさんにはぜひこの実習に全力を投じてもらいたいと思っています
……まあ、私がこうしてわざわざ口にするまでもなく、みなさんのこの実習に対する熱意は十分に伝わってきますので、その点に関しては何も心配してはいないのですが。
……そうですね、それとは別に、みなさんに一つ、言い含めておきたいことがあります」
白髪の老婦人は自らの姿勢も正し、あらためて目の前の生徒たちに向き直っていた。
「私たち教師がみなさんに与えた課題は非常にシンプルです。それぞれの班で協力して遺跡テラ・マーテルにたどり着き、そこで最終課題の未知目標を倒すこと。たったそれだけ。
――ですが、もしできることなら、自分たちの班が目的達成することだけに尽力するのではなく、他の班の動向にも目を向けてほしいのです。
そして、もし困っている班があれば、手を差し伸べ協力することを惜しまないでほしいと思っています。もちろん、自分たちにその余裕があるときのみで構いません。他者を助けることに気を取られすぎて、共倒れになってしまうのは本末転倒ですから。
ですが、みなさんにはどうか、自分の班さえ目的達成できれば良いという利己的な考えでいてほしくはないと願っています。これはあくまで私個人の考えですので、必ずしも遵守する必要もなければ、強制もいたしません。みなさんそれぞれの価値観があるでしょうし、どのような行動をとるかの選択は自由です。
ですから、これは言わば、私からみなさんへのお願いです。できることなら、ぜひクラス内で助け合ってほしい。
今から少し、私の持つ魔導師観についてお話しいたします。私の考えと合わないと思う場合は、今からする話は忘れてもらって構いません」
そう言い放ったウルリーケ・テナーは、どちらかといえば小柄な体格の女性であるにもかかわらず、まさに誰もが認めるアルス・マグナとしての風格を備えていた。
彼女は凛然と語った。
「この世界に生きている大半の人間は、魔力を持たずに生まれてくる一般人です。つまり魔法使い・魔導師とは、大衆の目から見て〝持つ者〟の側に位置する人間。持つ者とは、端的に言えば強者――そして持たざる者は弱者です。
魔導師は、常に持たざる者――弱者の味方でい続けなければならないと私は考えています。偽善的に生きろと言っているわけではなく、世界は太古から、そのように成り立ち今まで発展してきたと思っているからです。力を持つ者には、その者の意思とは無関係に責任が生じます。
なぜなら、その力が振るわれることで、周囲に良くも悪くも多大な影響をもたらすことになるからです。
ゆえに、力を持つ者にはある程度の良識が求められます。常に己を律し、己を省み、他者を慈しむ心がなければ、その大きな力に人は簡単に吞み込まれてしまうでしょう。
人を助けるということは、言い換えれば自分自身を助けることにもなります。みなさんが今持っている力は、決して自分一人の努力や成果だけで高めてこれたものではありません。それだけは断言できます。
たくさんの人の力を借りて、今あなた方はそこに立っているということを忘れないでほしいのです。その力は自分だけのためにあるのではないということを。
――また、魔導師は持つ者ではありますが、それと同時に持たざる者でもあります。一般的に考えられる穏やかな生活を望むことが、その特殊な生い立ちや能力の性質上難しいのです。
一般社会に出れば、魔導師の力を目当てにいつ何時でも襲われる危険性があります。みなさんが考えている以上に、私たちは少数派であり常に注目され続けている存在だということを覚えておいてください。
そして、誰しも恒久的にずっと強者でい続けることはできません。いつかは衰え弱者になる日が必ず訪れます。誰しもが強者になりえ、また弱者にもなりえる。なぜなら強者とは、一部の優れた人間のことではなく、自分より弱者を持つ世の中すべての人間にあてはまるからです。
自分が弱者となったときに、救いを得る権利が与えられるかどうかは、現在強者であるみなさんの日々の行いにかかっています。意味もなく力を誇示したり、極端に利己的であり続けたりすることで、自分から積極的に周囲に嫌われることはありません。
魔法使い・魔導師が世間的に悪者になってしまえば、かつての忌まわしき伝承である〝魔狩り〟を発起させる原因にも繋がりかねません。
自身の良心に従い、人に優しく親切に、人々から愛され信頼される魔導師を目指してもらえれば、私にとってはこれ以上ないほど教師冥利に尽きるのです。長くなってしまいましたが、私からは以上です」
学園長の言葉が終わると、周囲からは自然と拍手が沸き起こった。さすがの説得力である。高圧的に上から押さえつけようというのではなく、ただ目の前にいる生徒たちの心に訴えかけ、自発的にその行動を促そうとする。
今までに数々の偉業を成し遂げてきた彼女だからこその言葉の重みであり、彼女でなければこうはいかないだろう。