それは甘美なはかりごと
トゥーリに魔力を吸われることは、ソルエルにとっても抗いがたいほどの快感とはかりしれない幸福感をもたらす。本音を言うと、ソルエル自身も中途半端に止められるには辛いものがあった。
しかし、ここで流されるわけにはいかない。彼女はかぶりを振って己を律し、唇をしっかりと引き結んだ。
きっとトゥーリもわかってくれる。そう思ってゆっくり起き上がろうとすると、トゥーリが無言でそれを制してきた。
彼はソルエルをまた静かに氷の床に寝かせると、彼女の気持ちも言葉も何もかもすべて無視して、無言のまま再度唇を重ねてきた。
驚いてソルエルは抵抗しようとするが、力の抜けた身体では思うように抗えない。なんとか声を振り絞るようにして、必死でトゥーリに訴えた。
「やめて、トゥーリ……本当に、だめだってば……」
「――嫌だ」
「え……?」
「嫌だ、やめたくない。ソルエルが全部欲しい。もうずっと我慢してきたんだ。本当は君のそばを離れたくなんてなかったし、風使いの彼にも、炎使いの彼にも、他の誰も君に触れさせたくはなかった。君のためと思って耐えていた。でも、もうその必要はなくなった。今だけは僕が君を独占する。他の誰にも渡さない。僕を、君の中に刻みたい」
トゥーリの目にはもはやソルエルしか映してはいなかった。これは彼の人間的ないわゆる性衝動に近いものなのか、それとも仮想精獣としての魔力を貪る本能に過ぎないのか。それを見定めることもできないまま、なす術なくソルエルはトゥーリの手中に堕ちていた。
頭では、こんなことをしている場合ではないと痛いほどわかっているはずなのに、身体が言うことを聞かない。思考すらもとろけさせてしまうような、強制的な快楽を与えられ続け、抜け出せない泥沼へと引きずり込まれていく。
身体も心ももはや自分のものですらなくなり、トゥーリのために自ら開こうとさえしている。外側からも内側からも侵食される感覚にめまいがして、悲鳴にも似たか細い声を漏らした。
完全に動けなくなるまで魔力を吸い尽くされてしまってから、ソルエルは初めて、彼の策謀にはめられたことに気づいたのだった。
「トゥーリ……あなた……」
「ごめんね、ソルエル。こんな無茶なやり方で君を手に入れようとするなんて、間違ってるのはわかってる。でも本当に僕を拒む気持ちがあるなら、こんなに動けなくなるまで魔力をなくしてしまうことなんて、本来ならないはずなんだよ。
君は本心では、自ら進んで僕に自分を差し出したがっていたってことになるんだけど、あまり意地悪ばかり言うのもかわいそうだから、僕が一方的に君の魔力を吸い尽くしたってことにして構わないよ。僕も良い思いをさせてもらったのは事実だしね。ご馳走様」
トゥーリの言葉に、ソルエルはこれでもかというほど顔を赤らめていた。少しも否定できないのが、悔しくて恥ずかしくて仕方ない。
魔力の受け渡し行為は、互いの同意がないと上手くいかないということは、もう嫌というほどわかっている。
ソルエルが横たわったままで静かに涙を流していると、トゥーリは彼女を優しく諭すように言った。
「よく考えてみて。あのウルリーケに僕や君が敵う可能性なんて、たぶん万に一つもないんだよ。彼女を出し抜いて逃げるなんて、まったく現実的ではないね。君は僕を守ろうとすることに必死になりすぎて、冷静な判断ができなくなっている。君のそういう向こう見ずなところも嫌いじゃないけど、でもそれで君まで危ない目に遭わせたくはないんだよ。
……それにね、どのみち僕は、春が来れば君と一緒にはいられない。今が冬だから僕はラップランドを出てこれたけど、本当なら、一年中雪の降るような場所でないと生きられないんだ」
「でもトゥーリ、このままじゃあなたは……!」
「僕はね、このひと月近くのあいだ、本当に、夢を見ているように楽しかったんだよ。初めて学校というものを経験して、僕と同じ制服を着た仲間が何人もいて、直接話はできなくても、その場に一緒にいられるだけで楽しかった。
このクラスの子たちは、みんな面白くて楽しくて、良い子たちばかりだね。僕はこのクラスが大好きになったよ。強くなった彼らになら、倒されても本望だと思えるくらい。――そして、こんなにも大切に想える相手……ソルエル、君に出会うことができた。君は僕に一緒に暮らそうとまで言ってくれた。家族になろうって……言ってくれたんだよね? こんなに嬉しいことってあると思うかい。
たとえ叶わない夢物語だとしても、もしもそうなったらって考えるだけで、幸せすぎて泣きそうだ。僕はそれだけでもう十分なんだ。ありがとう、ソルエル。大好きだよ。今度は僕が君に気持ちを返す番だ。受け取ってくれる……?」
トゥーリは本当に涙を流していた。彼の涙で濡れた笑顔が眩しすぎて、もう何も言えなかった。
動けないソルエルに、トゥーリは再び口付ける。しかし、いつもとは違う感覚に彼女は違和感を覚えた。
初めはただのキスだった。それがある瞬間を境に、唇を通して体内に熱い何かが流れ込んでくるのがわかった。
ソルエルはいつも吸い取られる側だったので、すぐにはピンとこなかったのだが。しばらくして、これが魔力の付与だということにようやく気づいていた。
(何、これ……トゥーリの力……? なんて強い……受け止めきれない……)
少しでも気を抜けばすぐにでも身体ごと弾け飛んでしまいそうで、必死にこぼさず飲み干すように喉を鳴らす。息つく間もないほど膨大な量の力を与えられ、生理的な涙がにじんだ。
吸われているときとはまた違う感覚。しかし、押し寄せてくる快感は同じだった。しかも、体内に熱い流動として注ぎ込まれる感覚は、女性的な悦びの疑似体験に近いのではないかとすら思えてしまい、必死にその考えを払拭していた。
ただされるがままに、流れ込んでくるものを受け入れるしかない。下手に抗ってこれを中断させれば、ソルエルかトゥーリのどちらか――または両者ともに痛手を負ってしまいそうだ。何も知らないソルエルでも、それくらいのことは肌で感じることができた。
そして、それは言い換えれば、それだけトゥーリが本気だということだ。本気で魔力に乗せて、彼は自身の想いをソルエルに伝えようとしている。
彼の故郷や彼の失くした仲間たち、それからこの学園に来てクラスメイトたちと出会い、ソルエルと出会い……こうして口付けを交わすまで――すべての想いが、彼を形作っている思念となり、ここにしっかりと根付いていることをソルエルはあらためて知った。
トゥーリの言ったことに嘘は一つもなかった。本当に、彼は幸せだったのだ。
(トゥーリが幸せなら、私だって幸せじゃないはずがない……)
心からそう思った。魔力が身体に満ち溢れ、もうすっかり動けるようになっている。
ソルエルは目の前のトゥーリを精いっぱい抱きしめようと、その腕を伸ばした。
――しかし。
目の前にあるはずの、彼の身体に触れることはできなかった。何度も何度も彼に触れようとして、その手はむなしく虚空を掴む。
ソルエルは目を見開いた。
トゥーリの姿が、少しずつ透けていく。
「……トゥーリ?」
「――ごめん、騙すようなことをして。驚いたかい? そりゃあ、そうだよね。こんなことになるなんて、まさか君は想像すらしていなかったよね。最後に嘘を吐くような真似をして、本当にごめん。でも、こうでもしなきゃ、君は絶対に僕とこの契約を交わしてはくれないと思ったんだ。最上級の魔法契約――不帰の契りを」
「嘘……う、そ……」
ソルエルが声を震わせていた。彼女はなおも諦めずに、必死になって手探りでトゥーリに触れようとしている。
そのとき、彼女の焦燥を体現するように、手のひらから勢いよく魔法が発動していた。
きらきらと美しく輝くものがはじけ飛んだかと思うと、幻のように一瞬で霧散してしまう。見間違いでなければ、それは氷の粒のように見えた。
ソルエルはこれ以上ないくらいに顔を青ざめさせ、何度もかぶりを振った。何度も、何度も。
「うそ、いや、うそ、うそ……」
「上手に出せたね。今はまだ慣れないかもしれないけど、そのうちすぐに、思う通りに氷結も風も使えるようになるはずだ」
「嫌だ、トゥーリ、こんな力いらない。欲しくなんてない。あなたさえいれば私は――」
「うん、ごめん。これは僕のわがままだ。君に受け取ってほしかったんだ、僕がこの世で生きたという証を」
「勝手なこと言わないで。あなたがいなきゃ、なんにも嬉しくない。お願いだから一緒にいて、そばにいてよ、トゥーリ……!」
どうしたら良いかわからず泣きじゃくるソルエルを見て、トゥーリは彼女の頭を優しく撫でる仕草をした。しかし、もうその手はどこにも存在してはいない。
「ありがとう、ソルエル。君と出会えて良かった。君はきっと、素晴らしい魔導師になれるよ」
最後にそう言い残して、トゥーリの姿は跡形もなく消え失せていた。
仮想精獣は所詮、想像のもとに作り出された架空生物。倒せば何も残さずに消滅する。遺体すらも残らない。
氷に閉ざされた静謐な城の中で、ソルエルの慟哭の声だけがずっとこだましていた。




