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ずっと、こうしたかった

 そこは何もない部屋だった。本当に何もない。だだっ広い四角い空間に、あるのは目の前すべてを取り囲む、冷たく平らな一面の氷だけ。


 学園長は城の最上階の部屋と言っていたが、先ほどの豪奢な大広間に比べ、あまりの殺風景な空間に、思わず体感的にも視覚的にも寒気を覚えた。


 ずっと眠るように目を閉じていたトゥーリが、そこで突然むくりと起き上がっていた。しばらく彼はぼうっとしていたが、目の前のソルエルを認識すると、寝起きのようにとろんとした目で気の抜ける笑みをこぼしていた。


「おはよう、ソルエル……。久しぶり、元気だった?」


「――トゥーリっ……」


 ソルエルは、感極まって彼に抱きついていた。トゥーリはいつも身に付けていた手袋をはめてはいない。しかし、そんなことは関係なく、初めて彼の身体に直に触れた。それでも、ここがテラ・マーテルだからなのか、ソルエルが凍り付いてしまうことはなかった。


 ソルエルは今までの分を取り戻すように、トゥーリの冷え切った手をずっと握りしめていた。その気持ちに呼応するように、トゥーリもソルエルの手を握り返す。身体は冷え切っているのに、心はとても温かく満たされて、今までで一番幸せな時間だとさえ思った。


「ソルエル、火だまりを解消できたんだね。おめでとう」


 トゥーリが優しく囁いた。

 その言葉を聞くと、ソルエルはぱっと顔を上げて、力強い瞳を彼に向けた。


「トゥーリ、逃げよう。このテラ・フィールドから――ううん、この学園から出て、ずっとずっと遠いところへ逃げるの。大丈夫、今度は私があなたを守ってみせるから。私、やっと魔法が使えるようになったの。みんなの……トゥーリのおかげなんだよ」


 ソルエルはトゥーリの青白く冷たい頬に、いとおしげに触れた。トゥーリはきょとんとしたまま目を丸くしている。


「逃げる? 君と一緒に?」


「そうだよ。私のおばあちゃんも連れて、どこか遠いところで三人で暮らすの。貧しくてもいい。自給自足でもなんでも、その気になればやってやれないことはないと思う。トゥーリは魔力がご飯だから、お腹がすいたら私の魔力をあげる。経済的で良いこと尽くめだね。

――それに、たとえ私が無責任に学園から逃げたとしても、学園長先生は、クラスのみんなの氷をきっと解かしてくれる。生徒を見殺しにするような人では決してないもの。学園長先生だって、あの条件では私を縛りきれないことくらい、端からわかってらっしゃるんじゃないかな。

たぶん先生は、きっとまた私を試してる。この窮地からどう脱するつもりなのか。トゥーリを救える方法を見出すことができるのか。だから、私は与えられたチャンスを無駄にしないためにも、あなたとここから全力で逃げきってみせる。

トゥーリは私に本音を見つけろと言ったよね。やっと見つけたの。私、トゥーリとずっと一緒にいたい。あなたを死なせたくない、絶対に」


 ソルエルの熱弁を受けて、トゥーリは一瞬言葉を失っていたが、彼女の目が本気だと悟ると、やや頬を染めて嬉しそうに笑っていた。


「それって、プロポーズ?」


 今の緊迫した状況にはなんとも不釣り合いな、にこにこと微笑むトゥーリがそこにはいた。今度はソルエルが赤面する番だった。そして、彼女はいつになく立腹している。


「そ、そんなこと言ってる場合じゃ……! ――もう。茶化さないで、私は本当に真剣なんだよ」


「うん……ありがとう。すごく嬉しい。嬉しいよ。こんなに嬉しいって思ったこと、今までにない」


 そう言うと、トゥーリは笑顔のままで涙をこぼしていた。彼のアイスブルーの瞳からこぼれる大粒の涙は、まるで宝石のように輝いて綺麗だった。

 トゥーリは本当に、泣いても笑っても美しい。そして、それは見た目ばかりのものではなかった。


 思念の集合体に心と呼べるものがあるかどうかは知らない。それでもあえて思った。彼の心はきっと、誰よりも澄んで美しいのだと。素直で、無邪気で、恐れ知らずで、風のように自由奔放で、そして優しさに溢れている。人間よりもよほど人間らしい。


 心の底からトゥーリのことが好きだとソルエルは実感した。絶対に彼のことを守りたいとも。なんとしてもここから逃げきらなければ。


「この部屋、窓も何もないけど、どうにかして炎で外に出る抜け道を作れないかな。それとも、見つかる覚悟でいったんここから出て、別の場所から城を抜け出すか……」


 ソルエルが脱出方法をぶつぶつと考えあぐねていると、ふいに背後からトゥーリに抱きすくめられ、驚いて身を硬くしていた。


「な、何……?」


「いやぁ、真剣な表情のソルエルも可愛いなと思って」


「か……! ちょっとトゥーリ、気が緩みすぎてない? 今から命懸けでここから脱出しようとしてるんだよ。わかってる? 見つかったら、あなたは確実に死ぬことになる。

あなたの強大な魔力を無駄にしないため、学園長先生はどんな手段を使ってでもあなたに不帰かえらずの契りを強要してくると思うよ。この際、相手は私じゃなく他の誰かになるかもしれないし、とにかくトゥーリが死ぬのだけは避けられなくなっちゃう。自分のことだよ? お願いだから、もっと真剣になって」


「わかったよ、ちゃんと真面目にやる。だからその前に、君の魔力を少し分けてくれない? 僕、お腹すいちゃった」


「こ、こんなときに……?」


「こんなときだからだよ。ここにいるとね、僕ら仮想精獣ヴァイラスは、何もしなくてもどんどん魔力が吸い取られてしまうんだ。こんな空腹じゃ逃げようにも逃げられない。さっきクラスのみんなの魔力をもらったけど、あれだけじゃ足りないよ。それに、やっぱりソルエル一人をじっくり味わいたい。僕にとっては君の魔力が一番のご馳走だから。……だめ?」


 そんなことを言われてしまえば、これを断るのはソルエルにとって至難の業だった。


「……たしかに、逃げきる前にへばっちゃうのはまずいね……。もう、わかった、少しだけだよ。私も今魔力が尽きると大変なんだから」


「やったぁ。ありがとう、ソルエル」


 まるでご褒美にありつけた子供のように手放しで喜ぶトゥーリを見ると、今が差し迫った状況だということをつい忘れてしまいそうになる。しかし、それでも彼のこんなに嬉しそうな顔を見てしまえば、こちらも自然と頬が緩むのは仕方のないことだった。

 二人ともが焦って視野を狭くするよりは、どちらか一人は鷹揚に構えているくらいでちょうど良いのかもしれない。


 そんなふうに思考を錯綜させていたものだから、トゥーリから肩を掴まれ、いざ彼と向き合う形になったとき、初めて自分が今から何をされるのかをやっと認識したのだった。


 トゥーリの情熱的な視線とかち合うと、ソルエルは以前味わった感覚を一気に想起してしまい、途端に全身を巡る血がうるさく騒ぎ出すのがわかった。

 もう火だまりではなくなったはずなのに、顔が火を噴く寸前のように熱くなり、身体も茹で上がったように火照っている。そして、何より驚いたのが――。


「あ……ま、待ってトゥーリっ……」


 性急に顔を近づけてくるトゥーリを、ソルエルは必死で制していた。


「こ、氷の壁は……?」


「そんなものいらないよ。ここはテラ・マーテルだよ。さっきだって、君は僕の手や頬に直接触れることができただろう。それは、僕の力がここでは弱まっているからだ。ここでだけは、僕は君に触れられる。僕らを阻むものは、もう何もないんだよ」


 大きく目を見開いたまま固まっているソルエルに、トゥーリは優しく微笑みかけ、悪魔のようなたまらない魅力で彼女を手中に落としていた。

 ソルエルの心の準備が整うのを待つことはない。おそらく、いくら待っても彼女にはそれができそうになかったから。


 トゥーリがソルエルに折り重なり、軽く触れるだけのキスを終えてから、穴があくほど彼女を熱い瞳で見つめ、そして息せき切ってこう口にした。


「ずっと、こうしたかった……。どんなに君に触れたいと、君が欲しいと思ったことか」


「トゥーリ……わ、わたし――」


 私も――と言いかけた彼女の唇を、再度塞ぎこむ。

 押しとどめていた情熱が堰を切ったように溢れ出し、それは止まることを知らなかった。どちらのものかはもう定かではない。深く吸いつくように求める唇が、相手をこれでもかというほど味わい尽くし、嬲り、ねぶり、蹂躙する。抑えていた衝動と劣情が一気に爆発し、それをひたすら相手にぶつける。


 少しだけ、と言っていたはずが、気づけばソルエルの身体は氷の床にずるずるとしなだれてしまうほど、力を失っていた。

 それでもトゥーリは止まることなく、一切の躊躇もなく貪欲に彼女を求め続け、なおも身体を重ねてこようとしている。


 さすがにこれ以上はいけないと、抑制のきかなくなっているトゥーリに向って、ソルエルは少し強めに諫めていた。


「トゥーリ、だめ! これ以上はだめだよ。本当に、逃げられなくなっちゃう」

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