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アルス・マグナ

「あらあら、これはいったい何事ですか」


 白髪の老婦人は実体ではなく、意識のみをこの場に飛ばし、透けた身体に言葉を喋らせていた。彼女の仮の身体は、眠るトゥーリのすぐそば、祭壇の前に映し出されていた。


「野外実習もあと少しで終わるというのに、ここまできてクラスの約半数が実習を辞退するなんて、前代未聞ですよ。特に重傷者が出たわけでもないようですし、これはどのような意図で引き起こされたものですか?」


 今まで騒然としていた場が、途端にしんと静まり返っていた。

 学園長は決してきつく問いただしているわけではないというのに、誰も彼女の質問に正確に答える者はいなかった。答えることができなかった、と表現するほうが正しいのかもしれない。


 実習以前は意識することもあまりなかったが、最上級仮想精獣アンリミテッド・ヴァイラスを倒して、多少なりとも魔法使いとして強くなった今ならばわかる。この目の前の老婦人が、最上級仮想精獣アンリミテッド・ヴァイラスなどよりも、よほどおそろしく強い存在だということが。


 彼女が威圧的に接しているわけではないとしても、目の前にいるだけで、同じ人間だとは思えないほど格の違いを見せつけられて、誰もがみな委縮してしまうのだ。

 生徒たちの思いを汲んだのか、ウルリーケ・テナーはあえてこれ以上詮索することはしなかった。しかし、何を思ったのかふとやわらかく微笑むと、彼女はこんなことを口にした。


「何があってこのような事態になったのかは想像もつきませんが、この人数の学生がほとんど同じタイミングでリタイアしているということから推察するに、何かきっかけでもあったのかしら。例えば、こうなるように仕向けた、誰か先導者がいたとか……」


 そう言って、学園長がちらりと泣きべそのままのソルエルを一瞥する。ソルエルは血の気が引く思いがしたが、それでも学園長は特に何も言ってはこなかった。


「仕方ありませんね。理由は後でゆっくり聞くとして……それでも辞退は辞退です。もう一切の取り消しは認められません。辞退の意思を表明したみなさんには、即刻このテラ・フィールドから退場していただきます。もう実習参加者ではないのだから。

――さて、では、実習続行中のみなさんたちだけでも、協力して未知目標アンノウンを倒してもらいましょうか。……あ、いえ、この呼び方は正確ではありませんね。もうすでに正体が判明しているんですもの。さあ、みなさんで力を合わせて、このトゥーリを倒してください」


 学園長が戦闘再開の指示を出したとき、静かなこの場に、またもアラーム音が鳴り響いていた。


「学園長先生、すみません……。無理です、私もリタイアさせてください……」


 D班のミシェルが泣きながらバングルのボタンを押していた。彼女の悲痛な表情を見た、同じくD班のニスも、無言で自身のボタンを押す。

 それに呼応するように、次々とあちこちでアラーム音が鳴り出していた。


「お、お前ら、くそっ……!」


 こうなってしまっては、もはや戦うことは戦力的に不可能だと断念したのか、マギウスも悔しそうに自身のボタンを押していた。

 最後に残ったC班のエルトンが、呆然としながら、その場でただ一人立ち尽くしていた。


「俺は……リタイアなどするものか。俺は……俺だけでもあいつと戦って、一番に……」


「エルトン君」


 彼と同じC班であるレトニアが、彼の手を優しく握りしめた。


「エルトン君、一人で戦ったら死んじゃうよ。そんなの私、嫌だよ。自分で押せないなら私が君のボタンを押してあげるから。一生私のこと恨んでくれて構わないから、ここはどうか折れて。私、君に死んでほしくない」


 そう言って、レトニアが震える手でエルトンのバングルのボタンを押した。エルトンは彼女のことを怒らなかった。怒る気力すら湧かないほど、彼は現状を受け入れられなかったのかもしれない。そんなエルトンを、レトニアが静かに抱きしめた。

 クラスの全員がリタイアしたことを見届けると、ウルリーケ・テナーは大きなため息をこぼした。


「……なるほど。だいたいの状況はわかりました。みなさん、敵に情が移ってしまったということなんですね。まったく、なんてこと。

最上級仮想精獣アンリミテッド・ヴァイラスを学生の身で倒すという偉業を成し遂げ、魔法使いとして飛躍的に成長を遂げただけでなく、さらにクラスが一丸となって協力し互いに知恵を出し合い、教師の仕掛けた罠や未知目標アンノウンの正体まで突きとめ全員でここまでたどり着いた――稀に見る優秀な学年だったというのに。なんと嘆かわしい結果に終わってしまったのでしょう。本当に、心から残念でなりません」


 学園長は、言葉通りの暗い表情を呈した。おそらく、本当に本心からの言葉なのだろう。悲嘆にくれる憂いの眼差しが陰りを帯びた。


「教師として、これほどまでに悔しいことはありません。私や他の先生方が組んだ教育プランが、当のみなさんには受け入れられなかったということなのですから。残念ですが、あなたたちには初等教育にまでさかのぼる、基礎からの再教育が必要なようですね。

授業で何度も習ったでしょう? 仮想精獣ヴァイラスは生物には定義されないと。あれらはただの思念の集合体に過ぎないのですよ。生き物のように見えても、真の実体はどこにも存在しない。その大前提があるからこそ、あなたたちも、今まで数えきれないほどの仮想精獣ヴァイラスを倒すことができたのでしょう?

本物の生物を害すのであればさすがに心も痛むでしょうが、実体のないただの思念であれば、戦争の道具にしようが、己の技を磨くための対戦相手としようが、何とも思わぬ存在のはずです。トゥーリだって、あなた方が今までに倒してきた仮想精獣ヴァイラスと同じなのですよ。人間のように見えても、あれは人ではない」


「同じじゃ、ないです……」


 とくとくと語る老婦人に、ただ一人、恐々としながらも反論する者がいた。クラス委員長のエリックだ。


「同じでは、ありません。彼は――トゥーリは、仮想精獣ヴァイラスである前に、僕たちのクラスメイトです。生き物ではないとかただの思念だとか、そんなことよりもまず、僕たちが彼を大切な仲間だと思っている事実があるんです。その気持ちを、どうか無視しないでください、学園長先生」


 エリックの足は震えていた。しかし、彼はとても立派だった。クラスの誰もがエリックのことを尊敬し、リーダーにふさわしいと思い至ったことは、やはり間違いではなかった。この場でそれが実証されていた。


 学園長は、エリックのその渾身の言葉を受け止めたあと、生徒たち一人ひとりの顔をまじまじと見つめていった。

 彼女から目をそらす生徒もいれば、臆せずそのまま挑むように見つめ返してくる者もいる。


 ウルリーケ・テナーはどの生徒に対しても、一様にやわらかな笑みを向けた。しかし、その笑顔の向こうには、誰もが畏怖するはかり知れない何かが渦巻いていた。

 老婦人は、容赦のない言葉で生徒たちをねじ伏せにかかる。


「――甘いですね、あなたたちは。本当に甘い。優秀なように見えても、やはり精神はまだまだ年相応ということなのでしょうか。いいですか、今エリックが口にしたこと――それこそが今回の課題なのです。

魔法は目まぐるしく日々進化しています。例えば敵国の諜報員として、トゥーリのような人型仮想精獣ヒューマノイド・ヴァイラスが送り込まれてくるという手法も、そう遠くない未来すぐに定着することでしょう。信頼している仲間の中に、敵が潜んでいるということは十分にありえます。

魔導師は国の戦力の要ですからね。いつだって、まず最初に狙われるものです。そうなったときに、みなさんは己に課せられた任務を全うすることができますか。情に流されず、冷静に対処することができますか。敵にだって事情はあります。当たり前です。それにいちいちかかずらい感情を揺さぶられていては、いずれあなた方自身が身を滅ぼしますよ。

今回の野外実習で用意したカリキュラムは、その予行演習としての前身でもあったのです。人型仮想精獣ヒューマノイド・ヴァイラスも倒せないようでは、今後魔導師としてやっていくのはとても厳しい。このクラスは優秀ですが、どうにもみなさんは心根が優しすぎるようですね。連携も協調性も抜群だっただけに、こんなところで挫折してしまうのは本当に口惜しい」


 エリックたち生徒一同は、もはやこの老婦人に返す言葉も見いだせぬまま、ただ立ち尽くすしかなかった。


 これだけの人数が集まっていても、この学園長には弁舌ですらも敵う気がしない。彼女に抗議するどころか、徹底的に自分たちの甘さ・未熟さをたちどころに突き付けられてしまうばかりで、それ以上何か別の糸口や切り札があるわけでもない。


 ただただ自分たちは、本当に子供だったのだと嫌というほど気づかされてしまっただけ。

 意気消沈している生徒らを見て、ウルリーケ・テナーは今一度大きく息を吐く。


「こうまで説いても、それでもあなた方の中にはまだ、トゥーリは望んでこんなことをしているはずがないと、希望を捨てきれぬ人もいるでしょう。でも、トゥーリを作った私が一言彼に命じれば、彼はあなた方に一切の気をやることなく簡単に手を下すでしょう。仮想精獣ヴァイラスとはそういうものなのです。――トゥーリ、彼らに少し、それをわからせておやりなさい」


 老婦人が合図すると、ずっと静かに閉眼したままだったトゥーリが、再びゆっくりとその目を開けた。

 生徒たちが一斉に身構える。――が、それもただの悪あがきでしかなかった。


 今までソルエルの前以外では、決して声を発することのなかったトゥーリ。その彼が、初めて人前で声をあげた。この広間中に響き渡る、耳をつんざくような大きな叫び声を。

 驚いたときには、もう遅かった。トゥーリの話していたことは嘘ではなかった。


『僕の声を聞くと、みんな凍り付いてしまうから』


『強い魔力を持つ人でないと、僕の声とともに放たれる魔力に耐えきれず凍ってしまう。だから、誰とも言葉を交わさないようにしていた』


 すべて本当のことだった。この場にいた生徒たちはみな、頭から足のつま先まで、すっかり全身が凍り付いていた。

 まるで、この城内に飾られている氷の彫刻像のように。


 凍り付いたときの表情や体勢は千差万別で、怯える顔の者もいれば、勇ましく立ち向かおうとしている者もいる。仕草はバラバラだったが、一様に彼らの時はみな止まっていた。

一瞬の時を切り取った表情がそこには残っており、永遠の一瞬を現す、芸術的な美しさすら秘めていた。


 しんと静まりかえった中で、ウルリーケ・テナーが不満そうな声を漏らす。


「……少し、詰めが甘いのではない? トゥーリ」


 彼女がそう指摘したことで、声を殺していたはずの者が一人、恐怖のあまり足がすくんで、氷の床で足音を踏み鳴らしてしまっていた。

 老婦人は、その人物を見て静かに唇の端をつり上げた。


「――そう。火だまりを解消してもなお、トゥーリの声の魔力を打ち消すことができたのね。身体がその感覚を忘れずに、覚えていたのかもしれませんね」


 クラスの全員が凍らされた中で、ただ一人無事に残ったソルエルが、全身を震わせながらその場に立ち尽くしていた。

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