マイスという男
夏のあいだは、ルビ一人だけが睡眠と睡眠のあいだに見張り時間を敷かれた、過酷な当番形態を取っていた。班が三人構成のため、どうしても誰か一人が、そのような中抜きの睡眠しか取れないきつい枠を担当しなければならない。
当初の予定では、秋に入ればその役目はマイスと交代するはずであったが、ルビがあえてその枠の続投を希望したため、秋に入っても、彼は中抜きの睡眠のままでがんばっていた。
「言うほどきつくないから大丈夫だ。むしろ身体がこれに慣れちまったから、今さら寝る時間が変わるほうが嫌なんだよな」
ルビはそう言っていたが、ソルエルは彼の真意を見抜いていた。深夜にソルエルと見張りを交代するときに、二人きりでスムーズに契約を交わすことができるからに他ならない。
そういうことを気遣ってもらうと、嬉しいよりも申し訳なさのほうが先に立ってしまい、ルビが身体を壊したりしないか、ソルエルはずっと気がかりだった。
いっそソルエル自身が彼と変わると申し出ても、ルビは断固としてその役割を譲らなかった。自分のためにやってもらっていることで、これ以上ルビに負担をかけてしまうのは忍びない。
それでも結局はルビに頼るしかなく、ソルエルは自己嫌悪に陥るばかりだった。
今夜もソルエルは、テントの中で深夜に目を覚まし、見張りを続けているルビの元へ赴いていた。
足取りが無意識に重くなるのは、火だまりの症状のせいだけではない。昨夜のことを思い起こして、自然と身体が強張ってしまう。
あのときルビは正気を失いかけていた。彼自身も不本意な様子で、とても後悔していたのがひしひしと伝わってきた。
反省の意を色濃くするルビのことを、警戒するなどもってのほかだ。しかし、身体が自然と緊張してしまうのは、もうどうしようもないことだった。
散々不安な気持ちを逡巡させていたソルエルは、外で待っていた人物が、ルビではなかったことに一瞬面食らう。
ソルエルとの見張り交代を待っていたのは、ルビではなくマイスだった。
「あれ……マイス? どうして――」
「ルビと時間帯を交代することにした。やはり、ずっとあのままではきついだろうから」
「そ、そうだね、たしかに。わかった、じゃあ明日からもそれでいくってことなんだね」
小さな焦りをひた隠しにしながら、ソルエルは、今夜は久しぶりに魔吸石を使おう、などと考えていた。急な変更に面食らったものの、正直なところ少しほっとしてもいた。
「ソルエルが眠ったあと、急にルビが、やっぱり時間帯を変更してくれと言ってきたんだ。何やらとても切羽詰まったような口ぶりでね。私は別に構わなかったので引き受けたんだが」
「……そう、だったんだね」
やはりソルエルだけではなく、ルビも大いに気まずい思いを抱いていたのだ。自分が頼ったことで、ルビに罪悪感を抱かせてしまう結果になり、申し訳なさでいっぱいだった。
妙に長く押し黙っているソルエルを、マイスは静かに見つめた。
「ルビと時間帯を交代することに加え、あいつは君との契約のことも、私に頼めないだろうかと、必死の形相で泣きついてきたよ」
ソルエルは目を瞬かせた。マイスが何を言ったのか、すぐには理解できなかったのだ。
「ソルエルに何の相談もなしに、こんな大切なことを君なしで決めてしまって、本当に申し訳ないのだが……。ルビのあんな追い詰められた目を見てしまったら、なんだか気の毒で何も言う気にはなれなかった。
……まあ、あいつの事情はともかく、大事にすべきなのはソルエルの気持ちも同じだ。どうするかは君が考えて決めてほしい。その上で今の提案を呑むのであれば、今夜の相手は私がつとめさせてもらおうと思う」
「え……?」
ソルエルは驚きすぎて固まってしまった。無理もない、とマイスがやや苦笑しながら話してみせた。
「夏に入ってしばらくした頃からだろうか。なんとなく、私を除く三人でこそこそしているなというのは薄々気づいていたよ。でも、あえて詮索はしないことにした。そうしたら、ルビのほうから耐え切れないとばかりに暴露してきたものだから、かえっておかしくて。……いや、すまない、当人同士にとっては笑い事ではなかったな」
マイスが意外にも軽口を叩いていたので、ソルエルは逆に唖然としていた。
どうやらマイスは、自班のメンバーたちが隠れて何かをしていることには気づいていたため、ルビから打ち明けられてもさほど驚きもしなかった、ということなのだろう。
「それで先ほどルビから聞いて、魔法契約の細かな事情を知ったわけだが……。私にこのような代役を頼んでくるなんて、本来ならルビにとっては不本意極まりなかったろう。しかし、逆にそれだけ、やむにやまれぬ事情があったということだな。あいつは、『このままではソルエルを傷つけてしまうかもしれない』とまで思い詰めていたから」
「傷つける、って……」
「だから、キスより先に進みたくなったんじゃないか?」
「な……っ、え……?」
思わず絶句しているソルエルに、マイスが諭すような口調で言った。
「ソルエル、あの馬鹿をかばうわけではないけど、どうかあいつの事情もわかってやってほしい。同じ男として、まったく理解できないというわけではないと思った。特にルビの場合、相手が君ならなおさら……」
ソルエルは、何と返して良いかわからずに俯く。すると、マイスは何かを思い出したように少し笑った。
「あいつ――ルビには、私ならきっと自分のように暴走することはないだろうと、根拠のない絶大な信頼を寄せられたよ。褒められているのかも正直よくわからなかった。私も同じ男だというのに」
「そ、そう……」
こんなびっくりする状況であるにもかかわらず、ソルエルは思わず、うっかり笑ってしまった。ルビの言いたいことは、なんとなくわかるような気がしたのだ。マイスなら大丈夫だと。
マイスが物事を俯瞰的に見ることのできる人物だとは、ソルエルも以前から思っていた。彼は決して自分を見失ったりすることはない。しっかりと地に足のついた、安定感を持っているのだ。
マイスはこれ見よがしにため息を吐いた。
「まったく、とんでもないことに巻き込まれてしまった」
「ご、ごめんなさい……」
「冗談だ、本気で言ってるわけじゃない。それで? どうするかもう決めたのか、ソルエル」
そう聞かれて、ソルエルはぎゅっと胸の前で拳を握りしめた。
「……マイス。あなたまで巻き込んでしまうことになって、本当に何てお詫びすれば良いのかわからないんだけど……。もし良かったら……どうか、力を貸してください。お願いします」
「了解した。そんな二人して、思いつめた顔をしないでくれ。こちらは迷惑になど思ってはいないよ。だから、ソルエルが引け目を感じる必要はないんだ」
マイスは軽く笑ったが、やはりソルエルはこんなことを頼む手前、あれこれと考えあぐねてしまうのだった。
「ありがとう、本当に……。マイス、私とその……するの、嫌じゃないの?」
「ああ、嫌ではないよ」
「本当に……? 無理してない? マイスはいつも優しいから。ねえ、マイスは好きな女の子とかいないの?」
「な、なんだ急に、藪から棒に」
マイスは一瞬面食らっていたが、すぐさまいつもの堅い口調で返答した。
「そういうのには縁がないんだ。だから、変に気を回さなくていい」
マイスらしい優等生な返しだったが、彼が一瞬だけ見せた寂しげな目が、ソルエルには少し引っかかっていた。その目は見たことのある目だ。たしかトゥーリが、いつもそんな目をして笑っていた。あれは、何かを心に秘めた人の目だ。
マイスの炎と同じ色の瞳を見ていると、彼もソルエルの榛色の瞳を見つめ返してくる。
途端に恥ずかしくなって目をそらしたソルエルの頬に、マイスがそっと手を添えた。今からすることを急に自覚してしまい、ソルエルは胸が早鐘を打つようだった。
言葉をあれこれ交わさずとも、口付けの前の空気はもう察することができる。視界がマイスで埋まっていくと、ソルエルは覚悟を決めて、ぎゅっと瞼を閉じていた。
マイスの柔らかな唇が重ねられる。ひどく優しい触れ方だった。トゥーリのときともルビのときとも違う、本当に、ただただひたすらに優しい。
彼の唇から伝わってくる魔力の波長や、頬や肩に触れている温かな手から、ソルエルを気遣っているのが伝わってくる。マイスの所作のすべてが、ソルエルを慈しむように優しく包み込んだ。おかげで、いつの間にかソルエルの緊張もほぐれていた。
マイスとのキスは、強い快楽にさらされるでもなく、ただひたすらに安らげるものだった。こんなに安心できるキスがあるなどと、ソルエルは知らなかった。
ゆっくりと唇を離したマイスが、ほんの少しだけ眉根を寄せたのを、ソルエルは見逃さなかった。
ソルエルは心地よく感じていたが、彼のほうはやはり嫌だったのかもしれない。マイスには本当に申し訳ないことをしたと、ソルエルは自責の念に駆られた。
キスの最中にはどことなく余裕すら感じられていたのに、終わってみると、マイスは意外なほどに真っ赤になって気恥ずかしそうにしていた。こんな彼を見るのは初めてだ。
「……ソルエル、大丈夫か?」
「う、うん、もう平気。ありがとう。マイスが上手く吸い取ってくれたおかげだよ」
ソルエルがそう言うと、マイスはあらためてキスのことを思い出したのか、焦ったように目をそらす。
「そうか……なら良かった。それじゃあ、私はもうテントに戻るよ。何かあったらいつでも起こしてくれて構わないから」
「うん、本当にありがとう。お休みなさい、マイス」
「ああ。お休み、ソルエル」
ソルエルに背を向けて足早に去っていく。去り際に、ソルエルには見えない位置に来ると、マイスは安堵したように口元を覆い、ずっと自制していた感情を吐露するように思いきり嘆息した。
(ルビが音を上げたのがわかった。これは、たしかに危ないな……)
人知れず、マイスは苦悩の瞳で満点の星空を見上げていた。




