退学勧告は突然に
これまで自分なりに必死で学業に励んできたソルエルに、無慈悲にも突きつけられたのは「退学予告通知」の書面だった。
普段生徒が使っている新しい学舎ではなく、年代を感じさせるアンティーク調の旧学舎。そのうちの一室である学園長室で、少女ソルエルは厳かな雰囲気に包まれながら、白髪の老婦人と相対していた。
「ソルエル、あなたは授業態度だけなら模範生そのものであると聞き及んでいます。ですから、私としても非常に残念でならないのですが……。この王立魔法学園グランツ・アカデミーでは、座学だけができればよいというわけにはいかないのです。それはわかってもらえますね?」
「はい……学園長先生」
ソルエルはほとんど心ここにあらずといった様子で、ただ頷くことしかできなかった。
本当は、言いたいこともたくさんあったはずなのに、手が、足が、唇が震えて上手く言葉にできない。
目の前の、背筋をぴんと伸ばした白髪の美しき老婦人――〈アルス・マグナ〉の称号を持つ学園長ウルリーケ・テナーの放った率直な言葉は、それだけソルエルの胸に深く突き刺さっていた。
誰に言及されずとも、本人が一番身に染みてよくわかっている。努力だけではどうにもならないことなど、世の中にはいくらでもある。それでも、いつの間にか現実を忘れて、夢を見てしまっていたのだ。
魔法を使えない自分でも、努力さえすれば、この学園を卒業して魔導師になれるだろう、と。
もともとソルエルのような半端者が、魔法学園に在籍していること自体が、そもそもありえない話なのかもしれない。
八歳の頃に魔力がほんの少し発現しただけだったにもかかわらず、それがきっかけで、名門校であるグランツ・アカデミーから入学招集がかかるなど、思いもよらなかったのだ。
当時は何かの間違いなのではと、ソルエルの祖母は動転して、何度も学園に問い合わせたものだった。
そして、その頃よりソルエルがずっと抱えたまま拭いきれなかった違和感が、長い年月を経て、こうして顕在化してしまった。
途方に暮れているソルエルを見て、学園長は気の毒そうな様子で彼女に声をかけた。
「あらあら。そんなに悲しそうな顔をしないで、ソルエル。落ち込むには少々気が早いですよ。あなたの退学は、まだ完全に決まったわけではないのだから」
「え……?」
ソルエルが驚いて顔を上げる。
「言ったでしょう? これは退学〝予告〟通知だと。つまり、あなたが現状を打破し、課せられた条件を満たすことができれば、この通知はすぐにでも取り消すことが可能なのです」
「学園長先生――いえ、アルス・マグナ! それは本当ですか? 私にもまだチャンスが残されて……」
「ええ、本当よ。私が言いたかったのは、これがあなたに残された最後のチャンスだということ。もうすぐ野外実習が始まるでしょう。毎年恒例の、ハイスクール二年生の通過儀礼とも呼ばれている一大行事。そこできちんと魔法実技の成果をあげることができれば、あなたの在学継続を許可することを約束しましょう」
「野外……実習……」
「そう。あなたの夏魔法……その〝火だまり〟をちゃんと克服して、立派な炎使いにおなりなさい」
非常にわかりやすい明確な条件だった。そしてそれは、ソルエルにとって限りなく困難をきわめるものでもあった。
おののくだけで返答に困っていたソルエルに、学園長は彼女を気遣いながら、次の言葉を紡いだ。
「例年この野外実習を経た生徒たちは、みな目覚ましいほどに実技の実力・成績もともに跳ね上がっています。実習は正直なところ、大変過酷ではありますが、やはりそれだけの成果があることは証明されているのです。毎年実習を終えた生徒たちは、見違えるほど成長し顔つきも変わっています。ただの一学生ではなく、一人ひとりが、このハイルーン島国を支える次代の魔導師になるのだという自覚を持つからでしょうね。――ソルエル、それはきっと、あなたも例外ではないはずですよ」
そう言って、老婦人は筋張った白い手でそっとソルエルの震える両手を握った。
温かな人のぬくもりが伝わり、ソルエルの緊張を解いていく。それはまるで、学園長自身の魔力をソルエルに流し込んでいるかのようだった。勇気という名の魔力を。
「ぜひ見せてください、あなたの中で長年くすぶっている内なる炎を。眠ったままの力を。私は、本当のあなたを見てみたいのです」
この国一番の偉大な魔法使いである〈アルス・マグナ〉の称号を持つ老婦人は、老いてなおその目に強い光を宿しながら、ソルエルを大いに激励した。
彼女の力強い言葉に背中を押されるように、ソルエルの榛色の瞳が輝きを取り戻していた。
「ありがとうございます、学園長先生。先生のお言葉を胸に、私、がんばります。必ず先生の期待に応えてみせます」
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
深々と頭を下げて学園長室を後にすると、ソルエルはためこんでいた大きな息を深く吐いた。
これ以上ないほどに憂鬱、そして先行きは不安だった。つい、その場の空気に流されて「必ず」などと口にしてしまったものの、実際自分の魔力をどうやって引き出せばよいものか、妙案はまったく浮かばない。
解決策を簡単に見いだせるものなら、初めからこんな状況になど陥ってはいないのだ。
ソルエルが一人頭を悩ませていると、背後から肩を叩かれ、聞き慣れた声がかかった。
「ソルエル、お疲れ。どうだった? 学園長先生の話は」
「浮かない顔だな。何か良くないことでも言われたのか?」
「ルビ、マイス……」
ソルエルに話しかけてきたのは、ルビとマイス。二人ともソルエルと同じクラスの男子学生だった。
ルビ――ククルビタは多少粗暴なところもあるが根は優しく、マイスはどんなときでも鷹揚に構えていて頼りになる。
二人ともソルエルの同級生、親友、幼馴染……そのどれもに当てはまる、なんとも奇妙な縁で繋がれた気の置けない友人だった。
ルビとマイスの二人は、興味半分、心配半分といった様子で、学園長室でのことをソルエルに聞き出しにかかった。
二人には隠すことでもないかと、ソルエルは沈んだ顔のままでことのあらましを語った。
学園長からの呼び出しなど、滅多にあるものではない。一生徒に過ぎないソルエルが呼び出される理由など、ものすごく良いことか、ものすごく悪いことかのどちらかしかないのだ。
自分の話でルビとマイスの二人がどんどん深刻そうな面持ちになっていくのを、複雑な気持ちで眺めながら、ソルエルはなんとか自身の焦りを悟られまいと、取り繕うように気の抜けた笑みを浮かべてみせた。
「学園長先生に呼び出された時点で、なんとなく覚悟はしてたよ。もともと担任のローナ先生にも何回か魔法が使えないことで面談されてるし、悪い予感はしてたんだけど……やっぱり思ってた通りのことを言われちゃった」
いつも明るく活気に満ちた男二人の顔が曇っていくのを見るのは、ソルエル自身も辛かったが、余計な心配をかけたくなくて、ひとまず精一杯の笑顔で切り抜けることにした。その空元気がかえって痛々しく映るのだとしても、ソルエルはこの場でどのように振る舞うことが正解なのか、いまいちよくわからなかった。
「もしも本当に、野外実習が終わるまでにちゃんと魔法が使えなかったら、本気で退学になっちゃうのかな。……そうだよね、そう宣告されたんだもんね。そうなったらホントどうしようって感じだよね。参っちゃうなぁ」
あはは、と渇いた笑いで誤魔化してみるものの、旧知の仲である彼らを欺くことなどできはしない。ソルエルが無理に笑顔を作っていることも、付き合いの長いルビとマイスには見透かされて当然なのだ。
ルビがいつになく神妙な面持ちで言った。
「ソルエル、たしかお前んとこ、お前の受給してる支援金でばーちゃん養ってるんだっけ?」
「う、うん……」
ソルエルは痛いところを突かれたとばかりに、ルビから目をそらした。
支援金とは、正確には「魔導師育成支援金」のことを指す。
魔法使いが魔法を使用するにあたり、公的な資格を取得した者のことを魔導師と呼称するが、魔導師育成支援金は、文字通り、魔法使いとして生まれた子供を魔導師へと育成するために、その家族に支給される給付金だった。
魔法使いは遺伝ではなく突然変異で生まれる。それも十万人に一人の確率でしか生まれないため、非常に希少な存在だった。個々人の魔力の素質や能力に差はあるものの、魔導師として育った多くの人材が、あらゆる場面において大いなる活躍を見せている。国にとってはなくてはならない存在だ。もちろん、それはこのハイルーン島国だけでなく、他国においても同様の通念であると言えた。
魔導師育成支援金は、あけすけに言ってしまえば、魔法使いの子供を産んだ親に、何不自由のない暮らしを約束する代わりに、将来国に子供を差し出すことを納得させるための給付金というわけである。
事実、魔法使いとして生まれた子供は、ほぼ強制的に四歳から全寮制のマギアプリスクールに通うことになるため、幼少期のわずかな時間しか親とともに過ごすことはできない。まだ幼い子供を手放したくない親への苦し紛れの措置であった。
しかし、手切れ金だの身請け金だのと揶揄される支援金であっても、本当に生活に困窮している家庭においては、なくてはならないものではあった。ソルエルの家庭が、まさにそうであるように。
ソルエルはため息の代わりに、心に渦巻く隠しきれない大きな不安を、まるで独り言のようにつぶやいた。
「差しあたって困るのは、そこなんだよね……。私とおばあちゃんの純粋な生活費の工面。私がアカデミーを退学になれば、魔導師資格取得の見込みなしと判断されて、支援金の給付も打ち切られる。毎月の給付額は生活していくには十分だったけど、余った分はもともとあった負債の返済にあててたから、正直かつかつで。究極的には、問題は全部お金に集約するんだよね。……なんかごめん、生々しい話聞かせちゃって」
「いや、俺のほうこそ野暮なこと聞いちまって……悪かった」
ルビが申し訳なさそうに謝ると、マイスが無遠慮に横から割り込んでいた。
「何も恥じることなどない、ソルエル。立派なことじゃないか。亡きご両親の債務のために自身が学業に励むことで、返済義務をきちんと果たしている。給付金額は学業成績で多少なりとも上下する。君はいつだって、努力して優秀な成績を維持してきたじゃないか。これは誇ってしかるべきことだ」
「ありがとう、マイス。そう言ってもらえると救われるよ。実技の成績がまったく振るわない分、せめて筆記試験で取り返さないとどうにもならなくて」
ソルエルの渇いた笑いが廊下にむなしく響いた。
どれだけルビとマイスの二人が励ましたところで、根本的な問題が解決しないことには、このソルエルの曇った表情もきっと晴れはしないだろう。
そう、ちょうど今の空模様のように――。
ソルエルはいつも二人に話していた。魔導師として大成せずとも、慎ましくても祖母と二人で穏やかに暮らせれば、ほかには何も望まないと。
ルビとマイスの二人はその話を思い出して、思わず互いに顔を見合わせた。
友人のささやかだがとても切実な願いは、これからも守られるべきだと二人は強く思った。
そんな彼らの心境など知る由もなく、ソルエルは二人にとりとめのない話をしていた。
「求人誌とか時々見るんだけど、やっぱり魔法学校中退だと就職するだけでも厳しいみたい。せめて少しでも魔法が使えたら就職先はまだありそうなんだけど……。魔法の使えない魔法学校中退っていう中途半端な肩書きが微妙でね、正規職ではどこも雇ってはくれないみたいで。アルバイトなら掛け持ちすれば生活費はなんとかなるとしても、債務返済までには手が回らなくなりそうだし……。世の中の厳しさをあらためて学んでるとこだよ」
ルビとマイスには、ソルエルの話がいまいちピンとはこなかった。
将来魔導師になることがほとんど約束されている彼らには、魔導師以外の一般職の求人情報などに特別興味を持ったこともなければ、そもそも触れる機会もほとんどない。世俗と切り離されている魔法学園での閉じた暮らしでは、一般の外の世界の情報など、自分から知ろうとしない限りまず入ってくることはないのだ。
ソルエルもそのことは承知の上で、二人に相談を持ち掛けているというよりは、ただ現状報告をしているに過ぎなかった。
「あ、でもね。そういえば、一つだけかなり良い条件の求人があったんだけど……」
これ見てくれる? とソルエルは学生鞄から求人誌を取り出して、付箋の張られた頁を二人に指し示した。
「とある男爵様のお屋敷でメイドの求人を出してるみたいなの。探した中のどこよりもここが一番お給金が高くて――というか相場を飛びぬけててびっくりしたんだけど。ただ、勤務条件に二十代前半までって年齢制限が設けられてるから、運よく採用されたとしてもあまり長く働けそうにはないんだけど」
「やめとけ、こんなとこ」
求人を見たルビが、急に不機嫌な顔で吐き捨てるように言った。
「何でメイドにこんなガチガチの年齢制限課す必要があんだよ。しかもこの高給。あからさまに怪しいだろ。こんなん俺ですらやばいって気づくぞ。住み込み限定・夜勤あり……あ、ちっせー字で審査内容に容姿とまで書いてやがる」
「え、ほんとに? わ、気づかなかった。どうしよう、自信ない……」
「今考えるべき論点はそこじゃないと思うぞ、ソルエル」
マイスから冷静な指摘を受けたが、それ以上にルビがこの求人に対して異様なまでの嫌悪を見せていた。
「この家も、恥ずかしげもなくよくこんな不健全なものを堂々と一般誌で出せたな。この高賃金で若くて見た目の良い女ばかり雇って、させる仕事がメイド業のみ? んなわけあるか。どう考えても完全業務外の邪目的メインとしか思えねーわ」
「え……え……?」
「そうだな、私もルビと同意見だ。残念だがそこはやめたほうがいい、ソルエル」
ルビとマイスから予想外の完全否定をくらってしまい、ソルエルは心底ショックを受けていた。