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氷越しはキスじゃない?

 見渡す限りの草原をひたすら歩き、四人は北を目指した。実際問題、トゥーリがこの場の全員を飛んで運べばテラ・マーテルには簡単にたどり着くことが証明された。しかし、それではA班メンバーの成長にはまったく繋がらない。そんなことはあえて言及するまでもないことだった。


 道中ではもちろん仮想精獣ヴァイラスにも幾度か遭遇したが、トゥーリには戦闘に参加することを控えてもらい、A班三人のみで倒していくという話になった。そうでなければ実技訓練にならないからだ。


 しかし、そもそもトゥーリが参加するまでもなく、中級ミドル程度ならルビとマイスの戦力のみで圧勝だった。


 驚いたことに、二人とも昨夜とは比べ物にならないほど格段に強くなっていた。おそらくは、ヒュドラとティタンを倒した際に得た桁違いの魔力経験値ポイントの影響なのだろう。ルビもマイスも、単純に現在の魔力値だけを見れば、ひょっとすると教師陣と比較しても遜色がないかもしれない。


 ただ、その大きすぎる力を制御する技量がてんで追い付かず、考えなしに魔法を放てば、たちまち味方までも巻き添えにしてしまうだろう。二人はおっかなびっくり魔法を使うという状態だった。


 仮想精獣ヴァイラスに苦戦するのではなく、自身の力を制御することに苦心する有様なのだ。しかし、この制御がうまくいけば、ルビとマイスの二人は確実にかなりのレベルアップが見込める。ラッキーで手に入れた力でしかなかったが、いつまた想定外の強力な敵が現れるとも知れない現状では、どんな力も得て損はないのだと二人は開き直ることにした。


 使えるものは何でも利用して生き抜く。プライドや己の信条は、確固たる力を得て初めて主張できるものだと、二人は春のあいだに学んでいた。


 一方ソルエルはというと、今朝がた魔法が出せたことで俄然やる気になり、ルビやマイスの邪魔にならない後方で、炎を繰り出そうとひたすら呪文詠唱をしながら必死にフィールドを駆け回っていた。


 ルビやマイスもあれこれとソルエルにコツを指南したり、彼女にかなり協力的に立ち回ってくれたものの、やはり初日からそう上手くはいかず、ソルエルは一日中駆け回っただけで結局魔法発動には至らなかった。詠唱のしすぎで盛大に喉をらした。


 仮想精獣ヴァイラスに関する知識だけは、日頃からの詰め込み学習で一通り頭の中に入っているため、戦術を立てることは彼女の得意分野だった。ルビ、マイスもソルエルの知恵に幾度となく助けられており、班のチームワークとして理想的な役割分担ができていたが、やはり、今後ともずっとそれを続けていく訳にはいかないのだ。


 男二人がソルエルを励まし、彼女が二人に心配をかけまいとぎこちない作り笑いをしてみせる。いつもの流れを踏襲して、あっという間に夏の初日は幕を閉じた。

 そんな三人の様子を、トゥーリは遠巻きに眺めていた。



◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 夜になり、一人の見張り番を除いて他のメンバーはそれぞれのテントで就寝する。トゥーリだけは、荷物が戻ってきても自前の雪小屋を寝床にしていた。


 ソルエルは、深夜にルビと見張り番を交代し、眠い目をこすりながら一人草原にぽつんと座して遠くの星空や景色を眺めていた。


 身体が熱っぽくて重だるい。そういえば、今日はまだ魔吸石に魔力を吸わせていなかったことに気づいた。春のあいだは自動的に魔力が吸い取られてしまっていたから、その習慣もすっかり抜けてしまったが、これを忘れては、後々襲ってくる火だまりによる体調不良がやっかいだ。


 そんな折に、突然トゥーリが背後からぬっと現れたものだから、ソルエルは驚いて叫びそうになっていた。

 トゥーリは悪びれもせず「やあ」とにこやかに笑うと、当たり前のようにソルエルの隣に腰かけた。


「トゥーリ君、どうしたの? こんな時間に」


「月が綺麗だったから、ソルエルと一緒に見たくなってさ」


 たしかに今夜は美しい満月だった。歯の浮くような台詞にソルエルが思わず赤面すると、トゥーリはさもおかしそうに笑った。


「冗談だよ、少し話がしたかっただけ。夜中でもないと、君と二人きりでゆっくり話すことなんてできないからね」


 二人きり。トゥーリの言葉一つ一つがソルエルの心を甘やかに蝕んでいくようで、思わずめまいを覚えた。


 彼の唯一の話し相手になれる存在がソルエルしかいないのだから、彼が自分と話したがるのは当たり前なのだ。特別にソルエル自身が求められているというわけではない。きっと彼に他意はない、とソルエルは己を律した。


 よそよそしく目をそらした彼女を、不思議そうにトゥーリがのぞき込む。


「実を言うと、一人で泣いてないかなって心配で見に来たんだ」


「ど、どうして? 別に泣くことなんて……」


「昼間落ち込んでいただろう」


「――ああ、そのこと? ごめんなさい、余計な心配をかけてしまって。でも大丈夫、魔法が使えないのなんていつものことだから。もう何年もずっとこうだもの、いまさらあらたまって落ち込んだりしないよ」


「そう? 僕には平気そうには見えないけど」


「え……」


「今も泣きそうな顔してる。朝、湖で見かけたときもそんな顔だった。実はずっと気になってた。平気そうに見せてるけど、本当はもう限界なんじゃない? 助けてって目が言ってるよ。誰かに優しくしてほしい、甘えたいって」


 大胆にそんなことを言われて、ソルエルは思わず言葉に詰まっていた。


「な、何言ってるの……あんまりからかわないで。いつもそうやって誰かを口説いてるの?」


 茶化したところで、トゥーリは何も言わずにただこちらを見つめるだけ。その深いアイスブルーの眼差しの前では、どんな些細な嘘でも見抜かれてしまう。きっと見逃してはもらえない。


 ソルエルはどうすれば良いのかわからなくなって、ついにはぽろぽろと涙をこぼしていた。


「嫌だ、泣くつもりなんてなかったのに……」


「ごめん、泣かせたのは僕だ」


 トゥーリが優しくソルエルの後頭部を撫でた。


「心配だったんだ。君が泣くのを我慢しているみたいだったから。涙を流すのは大事なことだよ。悲しいときにちゃんと泣いておかないと、嫌な気持ちがたまったままになってしまう。

君は辛いことや嫌なことがあっても我慢したり、自分の気持ちを無理に押し込めて生きてきたんじゃない? 自分では気づいてないかもしれないけど。ソルエルの火だまりは、もしかしたらそこから来てるのかもしれないよ」


「え……?」


「今日一日、君を見ていて思ったことだ。このまま普通に訓練を続けるだけでは、いくらがんばったところで、たぶん魔法は使えないままだろうね」


「そんな……」


 絶望的な表情になったソルエルを、トゥーリは優しく諭していた。


「焦らないで、落ち着いて最後まで聞いて。君の詠唱や集中力、どれをとっても魔法発動が起こらないことが不思議なくらい、基本に忠実なやり方だ。もちろんそれが悪いわけではないし、むしろ模範的ですらあると思うけど、今も話した通り、君が魔法を使えないのはやっぱり心因性のものだと思う。

だから、教科書に書いてることだけを踏襲してても意味がないんだ。それでどういう方法が一番君にとって最適なのかを考えてみたんだけど――」


 トゥーリがそう言いかけて、ちらりとソルエルの手にしている透明の小さな水晶玉に目を落としていた。


「ところで、さっきから気になってたんだけどその水晶は何? たしか、僕を治癒してくれたときにも使ってたね。あのときは赤色だったけど」


「あ、えっと……うん。これは魔吸石というもので……」


 なぜこの水晶が必要なのかを説明すると、トゥーリは驚いて声をあげた。


「そんな非効率的なことをしてたの? 今までずっと?」


「そ、そんなこと言ったって、これしか火だまりを解消する術がなかったんだもの。私は夏属性だから、夏は特に魔力が増加して、魔吸石の消費も多くなる。それでもなかなか火だまりを解消できなくて、何かと体調不良をきたしやすいから、夏はあまり好きではなくて」


「せっかくの好季に体調が優れないのはもったいないよ。本来なら、君にとって夏は一番有利に働く季節のはずなのに」


「逆にトゥーリ君は平気なの? 夏は苦手なんだとばかり……」


「平気だよ、だってこれは偽物の夏だから。本当は、この学園の外はずっと冬だからね」


 トゥーリは涼やかに笑った。


「魔力が魂と強く結びついているのは知ってる?」


「え? う、うん。基礎魔法学で習った」


「じゃあ、その魂の出入り口はどこ?」


「えっと……口……?」


「正解。さすが優等生」


 話が早くて助かる、とトゥーリは機嫌よく言った。


「ソルエル、君のその火だまりの魔力を僕に渡してみない? そうすれば、魔力を身体の外に出す感覚を掴めるかもしれないよ」


「身体の外に……な、なるほど。でも、それってどうすれば……」


「今の話の流れでわからないかな? つまり、魂の出入り口である口と口を重ねることで、魔力の受け渡しができるんだ。知らないの?」


「そ、そんなこと初めて聞いた。――っていうか……」


 ソルエルはみるみるうちに顔を真っ赤にさせていた。涙など、いつの間にかとうに渇いていた。どうやら泣いている場合ではないらしいということに、遅まきながらに気づいてしまった。


 口と口を重ねるということは、よく考えなくてもつまり……。


「ああ、女の子には、〝キス〟って言ったほうがロマンチックで良かったかな」


 トゥーリはのんきにそう言った。


「そうか。生徒は未成年だから、魔法学校では一般的には教わらないことなのかもね。僕が前にいたところでは普通に行われているものだったから、他でも当たり前なんだと思っていた。

魔法使いや魔導師間の正式な契約方法として、ちゃんと定義付けもされているんだよ。〝口吸い〟というだろう。つまり、口から魔力を吸い取るという意味なんだよ」


 もっともらしく説明されたところで、まともに頭の中に入ってくるわけがない。

 ソルエルが困惑して魔吸石を握りしめていると、トゥーリはその初心な反応にからからと笑った。


「そんなガチガチに緊張しなくても。心配しないでよ、氷越しにするだけだから」


「こ、氷越し……?」


「そう。僕が氷の壁を作るから、その壁越しにキスをする。僕に触れたら君は凍ってしまうからね、したくてもできないんだよ。それでもちゃんと効果はあるから大丈夫。直接触れ合うわけじゃないんだから、キスのうちには入らないだろう?」


 トゥーリが臆面なくそう言って、邪気のない笑みを浮かべた。たしかにその方法なら、単に氷に唇を押し当てるだけということに過ぎないのかもしれない。が、しかし……。


(それって本当に、キスのうちには入らないの……? ――いえ、そもそもこれが魔法契約の一端なのだとしたら、氷越しだろうと直接だろうと、一般に言うキスとはまた別物と考えるほうが正しいのかも……。ううん、やっぱりキスはキスなのでは……いくら氷越しとはいえ……)


「ソルエル、僕とするのがそんなに嫌?」


 トゥーリが悲しそうな顔でそう聞いてきたので、ソルエルは慌ててそれを否定した。


「ち、違うの、嫌ってわけじゃなくて。いきなりのことでふんぎりがつかないというか、世の中には『はい』か『いいえ』だけではすぐに決められないことがあって――」


「君は魔法を使えるようになりたいんだろう? だったら、そんな悠長なことを言ってる暇なんてないんじゃないの?」


 ソルエルは、思わぬ不意打ちにぐっと言葉を詰まらせた。トゥーリが続ける。


「僕はできる限り君の力になりたいし、君のたっての願いも叶えられるように協力したい。でも君自身が本気で臨めていないようでは、僕が君にしてあげられることなんてたかが知れてるんだよ」


 まるで突き放すような言い方をされて、ソルエルは心臓が凍りつく思いだった。


 そして、そこで気づかされてもいた。がんばっているつもりになっていたが、それはただの独りよがりで、本当に覚悟を決めているわけではなかったということに。


 やれることはとにかく何でもやるという貪欲さが足りなかった。いつかは自分の中にある壁を壊さないといけないのだとしたら、それは今なのかもしれない。


 ソルエルは目を覚まさせるように、自分の両頬を思いきりぱんっと叩いて顔を上げた。


「トゥーリ君、その契約、私からもお願いします」


「わかった、そうこなくちゃね」


 アイスブルーの瞳が妖しく細められる。ソルエルの心臓が大きく跳ねた。

 単なる口約束とはいえ、言霊による契約はすでに交わされた。もう後戻りはできない。


「そんなに緊張しないで。何も怖くないよ。君はいらないものを吐き出して楽になるだけ。大事なものは何一つ失うことはない」


 トゥーリはソルエルの肩を抱き寄せて、もう一度 飴色あめいろの髪を優しく撫でた。


 そして、ソルエルと自分との間に境界線を引くように、透明にきらめく薄い氷の壁を地面から生やしていた。壁というよりもその厚みはむしろ紙のように薄く、想像していたよりもずっと距離感がないことにソルエルは戸惑った。


「こ、こんなに薄いの……?」


「あんまり厚いと意味ないだろう? 見た目よりもかなり頑丈に作ってあるから、そう簡単には解けない氷だよ」


 そういう問題ではないと口から出かけて、言うのをやめた。自分のためにここまでしてくれているトゥーリに、文句ばかり言うべきではない。直接触れ合うわけではないのだから、薄かろうと厚かろうと関係ないのだ。


「思い出して、今朝魔法が使えたときのことを。あれは、君が心から楽しいと思ったからできたことだ。もう一度僕に心を開いて。大丈夫、きっとうまくいく」


 氷越しに見えるトゥーリの銀の髪が、アイスブルーの瞳が、青白く透ける頬が、妖しく微笑む薄い唇が。月明かりの下で見るトゥーリのすべてが、息を呑むほど美しかった。


「トゥーリ君、あの……」


 いまさら怖気づいたソルエルが震える声で彼を呼ぶ。


「トゥーリ、でしょ」


 しかし、悪魔のごとき魅力で本気で誘いをかけてくるトゥーリの前では、どんな女も逆らうことなどできなかった。


「トゥー……リ……」


「良い子だね。さあ、おいでソルエル」


 これが蜘蛛の巣だと知りながら、あえて自ら飛び込んでからめとられる愚かな虫の気分だった。


 ソルエルはまるで引き寄せられるように、目を閉じてそっと震える唇を寄せた。唇というより、ほとんど鼻が先にぶつかってしまう。唇が氷に触れた瞬間、ひんやりとした冷たい感触とともに、身体の内側がひどくざわつき、驚いて唇を離していた。


「だめだよ、そんなすぐに逃げちゃ」


「ご、ごめんなさい、でも……」


「ほら、いいからもう一度」


 頭がパニックになる寸前で、急かされるままソルエルはぎゅっと目をつむり、もう一度氷に口付けた。再び身体の内側がざわつき熱を持ち始めるが、今度は怖くても逃げ出さず必死に耐えていた。今まで知りえなかった未知の感覚が、全身を支配し駆け巡っていく。


 もはや限界に近くなりそっと目を開けると、トゥーリはとっくに氷から顔を離してソルエルのキス顔をまじまじと見つめていた。顔から火が出るほど恥ずかしくなり、思わず顔を覆う。


「あはは、もっとしていたかった? 君は初めてだし、心配で少し早めに切り上げたんだ」


 いたずらっぽくトゥーリが笑う。ソルエルは、しばらく彼の顔をまともに見れそうになかった。


 正直なところ、自分でもどうかしてると思うほど、トゥーリとの魔力のやり取りに傾倒してしまった。あんなにも心地良いものだと思わなかった。


 自分でも触れたことのないような身体の奥深くから、無理やり快楽を引きずり出される感覚だった。そして、溜まっていたものが恐ろしい勢いで吸い尽くされてしまうと、言い表せないほどの解放感と浮遊感の余韻に包まれる。


 ソルエルがまだ心ここにあらずという様子でいるので、トゥーリがわざとらしく思わせぶりなことを口にした。


「ソルエルの魔力が流れ込んできて、僕もすごく気持ち良かったよ。君って見かけによらず、本当は熱いものを秘めた情熱家なんだね。さすが夏属性。魔力の受け渡しが上手くいったってことは、たぶん僕たちとても相性が良いよ。魔力の波長が合ってるんだ」


 ソルエルは再び顔を赤らめた。

 たしかにトゥーリの言葉通り、魔力の受け渡しは上手くいったようだ。さっきまで身体が重りのようだったのが、今では驚くほど軽く感じる。


 ふいに手が目の前にある氷の壁にコツンと触れると、一瞬にして、嘘のように氷が蒸発してしまっていた。わずかに残った水滴が地面にしみ込んでいくのを見て、ソルエルより目を瞬かせていたのはトゥーリだった。


「簡単には解けない氷のはずだったのに……」


 トゥーリが驚いているのを見て、ソルエルも初めて何が起きたのかを理解したのだった。


「え、今の……私……?」


 トゥーリが手を叩いて喜んだ。


「ほらね、やっぱりこのやり方で間違いなかった!」

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