銀髪の救世主
ソルエルたちは気が動転するあまり、己の目を疑うことしかできなかった。とてもではないが、目の前の光景をまだ現実として素直に受け止めることができない。
通常の魔法が使える状態であっても、中級仮想精獣でも時にはそれなりに苦戦を強いられることもあるというのに、その上の上級仮想精獣ですら軽々と飛び越えた存在――最上級仮想精獣。もはや強さの度合いをはかりかねるほど上限がないという意味でそう呼ばれている最強の存在なのだ。
最上級仮想精獣は、たとえ魔導師であっても機会がなければ、それこそ一生お目にかかれないような稀有な仮想精獣だった。それだけ創り出して呼び起こすことが非常に困難であり、よほどの熟達した魔導師にしかできない芸当でもある。それが今目の前にいる。己の目を疑うのは当然のことだった。
ヒュドラを学生実習場に配置するなどまずありえない。対峙すれば、教師ですらやられてしまうおそれがある。
学内でこの最上級仮想精獣と良い勝負ができそうな相手と言えば、もはやアルス・マグナである学園長ウルリーケ・テナーくらいしか思い当たらない。それほどまでに、眼前の九つ首を有する大蛇が全身からほとばしらせている魔力は凄まじく、その恐ろしさは魔法の使えない一般人にも十分に伝わったようだった。
「きょ、巨大な蛇の化け物! ひいっ……」
「森に退避するぞ、急げっ!」
黒服の男たちは、もはや魔法使いの子供をさらうという目的など完全に忘れて、三人から奪った荷物も何もかも放り出して、大慌てで森の中に逃げ込んでいった。
すると、まるで動くものに反応する蛇の習性を踏襲するかのように、ヒュドラは九つのうち一つの大きな首をもたげて森に顔を突っ込むと、逃げ惑う黒服の男たちに狙いを定めて、口から勢いよく大量の炎を吐き出した。
一瞬のことだった。森はあっという間に焦土と化し、轟々と燃え盛る炎によって、辺りはまるで昼間のように明るくなっていた。ヒュドラのたった一吐きの炎が、森全体を焼き尽くしてしまったのだ。
ヒュドラは複数の首を森に突っ込むと、黒焦げになった虫の息の男たちを探し出して、次々とその口の中に放り込んで丸飲みにしていった。
その恐怖の光景を見ていたソルエルたち三人は、もはや言葉を失ってそこに立ち尽くすだけだった。
本当に現実に、目の前で人が殺されてしまった。初めてそれを目の当たりにしてしまった。瞬きをするような、ほんの一瞬のあいだに。
三人は今すぐこの場で喚き散らしたいほどの恐怖に襲われた。しかし、そんなことをすればあの黒服の男たちの二の舞だ。蛇は特に動く獲物を狙う習性があると聞く。それからあまり目が良くないとも。
いくら伝説の大蛇とはいえ、もしヒュドラが蛇の持つその特徴をある程度受け継いでいるとすれば、下手に騒がず、動かず、息を殺して微動だにしないでいるほかはない。
また蛇は目が良くない代わりに熱を感知する力を持っており、通常はそれで生きた新鮮な獲物を見極めるが、幸か不幸かすぐ近くで森が派手に燃えていることもあり、どうやらそれに上手い具合に紛れて、まだ三人はヒュドラに見つからずに済んでいるらしい。
しかし、少しでも動けば自分たちもすぐに消し炭にされるか丸飲みにされるかのどちらかだろう。見つかるのを覚悟で手を動かしてバングルのボタンを押すか、それともこのままじっと息を殺して微動だにしないでいるか。どうすることもできない状況に、三人は死を予感しかけた。
そのとき――。
ヒュドラと同じくらいの大きさの、巨大な何かが突然彼方から降ってきて、ものすごい衝撃とともにヒュドラの胴体に激突し、その巨体をなぎ倒して湖に沈ませていた。
空から降ってきたのは、一体の氷漬けになった巨大な仮想精獣。ヒュドラにぶつかってなぎ倒したあと、その衝撃ではじけ飛ばされるように湖岸に勢いよく転がっていた。
氷漬けになった仮想精獣は、よく見ると巨大な人の形をしている。教科書で見覚えがあった――巨人族のティタンだ。驚いたことに、ティタンもまた、最上級仮想精獣なのだ。
この場に希少とされる最上級仮想精獣が二体も現れたことで、ソルエルたち三人はついに思考が追い付かなくなっていた。
すると、ティタンが降ってきた方角から、背筋が凍りつくような凄まじい寒気が急に流れ込んできて、三人は思わずそちらに視線を向けた。
すぐそばの湖畔で、ゆらりと立ち上がる小さな人影が見えた。今までずっと巨大な仮想精獣にばかり目を向けていたので、その人物はあまりに小さくひ弱に思えた。
俯いているため顔はよく見えなかったが、その印象的な銀髪を見紛うことはなかった。
「トゥーリ、君……?」
ソルエルが絞り出すような声でつぶやいた。
トゥーリはほんの一瞬ソルエルたちを一瞥したが、すぐに視線を湖の中心部へと向けた。ヒュドラがちょうど、一度崩された態勢を立て直して、再び湖の上にその巨体を現したところだった。
トゥーリが俯き加減のまま湖に足を踏み入れると、その足元からみるみるうちに湖水が凍結していった。ゆっくりとだが、確実にトゥーリの足元から放射状に伸びていくように、凍結範囲は広がっていく。
トゥーリの存在をいち早く感知したヒュドラのいくつかの首が、一斉に強烈な業火を彼に向けて吐き出したが、トゥーリは瞬時に防護壁のような巨大な氷の壁を作り出して、いとも容易くヒュドラの炎を退けていた。
これにはソルエルたち三人も驚愕した。
その攻防のあいだにもトゥーリが仕掛けた湖の凍結は留まることなく進行し続け、ついには湖全体が凍結し、ヒュドラの浸かっている場所も完全に凍りついていた。胴体の動きはほとんど封じたに等しい。
それを見届けたトゥーリは、機は熟したとばかりにその場から一気に跳躍した。向かった先はもちろんヒュドラのもとだ。
九つもの首を持つ伝説の大蛇に果敢に立ち向かっていった青年の姿は、あまりに小さく無謀で、ソルエルは思わずかみ殺すような悲鳴をあげた。人が殺されてしまう恐ろしい光景は、もうこれ以上目にしたくはなかった。
最上級仮想精獣などに、一学生が敵うはずがない。きっとすぐに殺されてしまう。一刻も早くバングルの非常呼び出しボタンを押して、教師たちに助けを求めなければ。
頭ではそう考えていたのに、どういうわけか、心のどこかで、彼なら大丈夫だと根拠なく信じてしまっている自分がいた。ソルエルは、それがなぜなのかまったくわからなかった。
ルビもマイスもボタンを押す素振りはない。もしかすると、彼らも同じ気持ちでいるのだろうか。
ソルエルの直感通り、トゥーリがヒュドラの攻撃に気圧されることはなかった。それどころか、この双方が相まみえてすぐに、大地を引き裂くような鋭い鳴き声で苦痛に喘いだのは、九つ首の大蛇のほうだった。
トゥーリは跳躍しながら両手にいくつもの鋭利な氷の刃を作り出すと、ヒュドラの首を容赦なく三ついっぺんにはね落としていた。
切り落とされた首から、赤黒く禍々しい色の血液が噴き出す。
それを見たソルエルが、はっとして大声を張り上げた。
「トゥーリ君、その血に触れちゃだめっ! ヒュドラの血は猛毒だよ!」
どうやらソルエルの声がトゥーリの耳に届いたようで、間一髪のところで彼は再び大きく跳躍し、噴出する血液に汚染されずに済んだ。血液が飛び散った湖畔では、恐ろしい速さで草が枯れ異臭を放っていた。
(前とは違う。トゥーリ君、ちゃんと私の言葉を聞いてくれている)
ソルエルはそう確信すると、遠くから再度トゥーリに向かって叫んでいた。
「ヒュドラの首は切り落としてもすぐ復活しちゃうの! でも切り口を焼き切れば復活を遅らせることができるよ! まずは胴体――それから最後に中央の首をはね落とせば倒せるはず!」
トゥーリはソルエルを一瞥すると、軽く頷いた。見間違いではない、たしかに彼は頷いたのだ。
ソルエルは気持ちが高揚するのを抑えられなかった。何を話しかけようとずっとこちらに少しも関心を示そうとしなかったトゥーリが、今はソルエルの言葉にきちんと耳を傾け、それを信じて実行しようとしている。この非常時に、こんな些細なことがどうしてこんなにも嬉しいのだろうと、ソルエルは不思議で仕方なかった。
「ソルエル、今の話は本当か? 切り口を焼き切れば、首の復活を遅らせられるんだな」
マイスが両手の甲をソルエルに向けて問いかけてきた。マイスの手のひらからは小さくだが、バチバチと火花が飛び散り始めていた。
「マイス、魔法が……!」
「ああ、ようやく戻ったようだ。全身に魔力がみなぎってくるのがわかるよ」
「マイス、奇遇だな。実は俺もだ」
そう言って、ルビがこれ見よがしに高く両手を掲げ、手のひらから風を巻き起こし始めた。
「二人とも……!」
ソルエルは思わず視界がにじみかけていた。
安心するのはまだ早すぎる。ピンチであることには何ら変わりないというのに。ようやくスタートラインに立てただけなのだから。
マイスが左手の指輪に口付けると、彼の放つ魔力はどんどん増長していった。彼が普段から愛用している、魔力増幅器の役割を果たしている炎の指輪だ。
そしてルビの右手の甲には風を象る文様――風の刻印が記されており、同じくこれも魔力増幅器の一種だった。それぞれが自分に合ったアイテムを身に付けている。
マイスはソルエルの言葉を信じて、トゥーリがはね落としたヒュドラの首の切り口を、必死に炎で燃焼し続けた。
ルビは、ヒュドラがトゥーリに向けて吐く炎が飛び火してくるのを防ぐために、巨大な竜巻を起こして防護壁を作り出していた。
「きっつ……! 魔法が使えるようになった途端にこんなフルパワーで応戦させられんのかよ。少しはリハビリさせろやっ!」
「悪態つく余裕があるなら、まだ大丈夫そうだな!」
マイスもルビも詠唱する余裕もないまま、いきなり全力での魔法発動を強いられていたが、心なしか二人とも、普段に比べて魔法の威力が数段上がっているようだった。追い詰められるとここまでの力が引き出せるのだと、二人は苦しい最中にも自分たちの潜在能力を知ることとなった。
ルビとマイスがこうしてそれぞれ攻撃と防御に無心で集中できるのも、トゥーリがヒュドラの目の前を動き回り、その関心を引きつけおとりになってくれているからだった。
ヒュドラが怒りに任せて巨大な尾を振り回しては、首をもたげて何度もトゥーリの残像に噛みつき空振りを繰り返す。大蛇は血眼になってトゥーリを殺そうと躍起になっていたが、トゥーリはそれをものともせず、風のように軽やかに飛び回ってはヒュドラを翻弄し続けた。まるですべての風がトゥーリに味方しているような動きだった。
マイスが切り口を燃やし続けているおかげで首はまだ復活せずに済んでおり、そこから生まれた余裕があったからこそ、トゥーリは再び他の首も三ついっぺんにはね落とすことができていた。
切り口から猛毒の血しぶきが勢いよく噴き上がる前に、マイスが素早く新たな切り口を炎で包み込み、血しぶきの拡散を防いだ。
この戦いの中で、マイスもルビも実践を通して、確実に強くなっているとソルエルは感じていた。
六つの首と大量の血液を失ったヒュドラの動きが、どんどん鈍くなってくる。そしてさらに追い打ちをかけるように、その胴体部はみるみるうちに凍結化が進んでいた。
トゥーリはやみくもに逃げ回っていただけでなく、実は巨大な大蛇の身体を何箇所にも渡って凍結させ、じわじわと追い詰めていた。
蛇は極端な寒さにすこぶる弱い。覇気を失いつつあるヒュドラにトゥーリは容赦なく無数の氷の刃を浴びせ、ようやく中央にある不死身の首を落とすことに成功していた。
マイスは慌てて中央の首の切り口を焼き切ることだけに専念した。肉が焼ける臭い、そして毒性を孕んだ血液の異臭が辺りに充満していた。ルビの風がなければ、もっとひどい臭いだったに違いない。
ソルエルはただ傍観することしかできなかったが、だからこそ、その臨場を誰よりも強く体感していた。
一方で、この惨状を作り出した張本人のトゥーリはといえば。もはや活動がほとんどできなくなったに等しいヒュドラには、もう興味を失くしたとでもいわんばかりに、のんきに自身の白手袋をはめだしていた。
トゥーリがいつも片時も外すことなく身に付けていた手袋だ。




