第七部
加奈を家まで送り、自宅に戻った架は玄関のドアを開けた。不用心にもそのドアに鍵はかかっていなかった。この状況に架は何度も見覚えがある。これはつまり。
「お帰りなさいませ、架様。」
「お帰りー、架くん。遅かったねぇ。」
博士が家に戻ってきているということである。
「博士、帰ってくるなら言ってください。」
「いやー、ごめんごめん。急に休みになったもんだから。」
「別にいいですけど。」
今、架の目の前で話している女性。これが架が博士と呼んでいるその人である。玄関から上がりながら架は博士に尋ねる。
「で、何で急に休みになったんですか?」
「いやー、なんかね。うちの会社のプレゼンやる予定だった会場が使えなくなってね。」
「会場ってどこです?」
「ほら学校の近くにあるでしょでっかい建物。あれだよあれ。」
「学校の周りはでかい建物ばっかりです。」
この博士は現代の電子工学の最先端を行く人(自称)である。事実、この家だけが現代から切り離されたようにアンドロイドが家事をしたり、声だけでも何でもできるとか。なんか未来である。要するに実験に使われている。
「私これから一週間は家にいるから。仕事行きたくないし。」
「そんなんで社長が務まるんですか?」
鞄を下ろしリビングのソファに腰かける。
「あ、そうだ架くん。そこで食べたい物を言ってみて。材料があれば自動で出てくるよ。」
「ご飯くらい自分で作りますから。」
博士は確かにすごいのかもしれない。しかし架にとってはただのいたずら好きの保護者としか思えなかった。この家の80%は恐らく、博士のいたずらでできている。
「じゃあ、サーモンカルパッチョ。」
「すみません。お作りできません。」
「じゃあ、チンジャオロース。」
「すみません、お作りできません。」
「じゃあ白飯。」
「すみません、お作りできません。」
「ちょっと博士!」
「なに架くん。大きい声出して。」
「白飯も作れないって、なんなんです?」
「だって材料ないんだもん。」
「えぇ。それで終わりですか。」
「何?私に何を求めてたの。」
架はわかっていた。博士に何を言ってもしょうがないということを。
「何でもないです。(自分から頼んどいて材料がない?はあ?何を言ってるんだこいつは。)
ご飯食べてきてるんでもう寝ます。」
「はーい、分かった。」
博士の声を背中に受けながら架は階段を上る。そう、いつものように。健が死んだと分かっているのに。どうして、なの?
「ピンポーン」
突然、夜の静寂を破りインターホンが鳴る。
「こんな夜遅くに誰かな。」
「ああ、博士。僕が出るよ。」
こんな遅くに一人の学生と変人の天才しかいない家に来るのは誰だろう。些細な疑問を浮かべながら階段を下り、架はドアを開けた。
「はーい。」
「架。架なんだね。」
「え。」
「こんなに大きくなって。見違えたぞ。」
「なんで。」
そのとき架の前に立っていたのは一人の男だった。
「なんでって、お前を迎えに来たんだよ。」
「なんで?」
「さあ、父さんと一緒にいこう。」
玄関の話し声を聞きつけ博士もやってきた。
「架くん、誰だった― え?」
博士も架と同じく時間が静止したように動きを止めた。
「あ、あなたは?どうして。」
動けない二人を目にも止めず男は話す。
「いいから、一緒にいこう。な?」
「やだ、やだ。いやだよ。」
「何がいけないんだ?父さんの何がいけない?」
架はその声を遮るように叫ぶ。
「いやなんだぁっ。」
その架の声は静止した時間を破った。
「架くん、離れて!」
博士に腕を引っ張られた架はその勢いのまま後ろに倒れこむ。
「スパーク!」
博士が手に持ち、構えていた何かはその声と共に光り、見えない空気の波を作り出し、架の父を吹き飛ばした。
「何者なのあなたは。あの人にそっくりだけど。というかあの人そのものだけど。」
玄関から吹き飛ばされたその男はまともに衝撃を喰らった体をかばいながら立ち上がる。
「あぁ、架。あっちで一緒に暮らそう。」
その顔は父の顔だった。ただその目は明らかに架が覚えている父の目とは違っていた。あの目は。
「くそ、もういっちょ。」
再び博士の手の中から発せられた空気の波はさらに架の父を吹き飛ばした。
「これでどうだ。」
それでも架の父らしきものは立ち上がり、まっすぐに架の目をとらえ進んでくる。
「なんで、どうして。」
「架。一緒に行こう。一緒に逝こう。」
そうあの目。あの目だ。架がこの目を見るのは初めてじゃない。もう見たくなかったのに。忘れたはずだったのに。
「もう、消えてくれぇー!」
それから数分後。あの男は忽然と姿を消した。いったいあれが何だったのか。幽霊なのか。何一つ分からなかった。
「架くん、大丈夫?」
玄関でうずくまる架に博士が声をかける。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。」
架はずっと逃げていた。忘れようとしていた。あの記憶を消そうと。なのにそれを咎めるようにあれが現れた。忘れるなと言っているように。