第十九部
「ピピピピピピピピピ」
いつもの煩わしい音に目を覚ました架はおもむろにその手を時計に伸ばし叩きつけた。時計の針は7時を指していた。
「やば、もうこんな時間か」
架はその重い体を起こしてベッドから立ち上がる。
「なんだこれ」
なにか長い夢を見ていたような。そんな気がするのだ。
「まあ、いいか。加奈を早く加奈を迎えに行かなくちゃ」
部屋の角にあるドアに向かい、そのドアを開けると―
「架様、おはようございます」
「ひゃあっ!」
女のような声を出しながら架は後ずさる。そこにはいつものように立っていた。彼女が。
「どうかされましたか?」
「いや、何でもない。博士いる?」
「リビングにいらっしゃいます」
無機質に返ってくるその言葉になぜかほっとする。
「博士ぇ!いるんでしょ」
「なあーに。どうしたの?」
下のリビングにいるであろう博士のだるそうな声が聞こえる。
「部屋の前にロイド置くなっていつも言ってるじゃん!」
「ああ、ごめんごめん。わすれてた」
まったくもう、そういって架は階段を下りる。今日も朝ごはんを食べている余裕はなさそうだ。
「昨日も遅かったね」
階段を下り終えリビングにたどり着いた架の目に飛び込んできたのは案の定、ソファで死んだ魚のような姿の博士だった。
「いやあ、いろいろと忙しくてね」
「あっそ、体を少しはいたわったら?」
「おお、架くん、心配してくれてるのぉ?お姉さん嬉しいなぁ」
「お姉さんじゃなくておばさんじゃね?」
「ああ!今なんて言った。私はまだ三十代だから!四十からおばさんだから」
「三十八歳がなに言ってんのか」
博士の戯言をいつものように余裕で弄しながら架はいつの間にか後ろにいたロイドから着替えを受け取る。その制服をそそくさと着て玄関に向かう。
「じゃあ、加奈迎えに行くから早めに行くね」
玄関で靴を履き、ロイドから鞄を受け取りながら博士に声をかける。
「加奈?なあにそれ?彼女いますアピール?」
「ああうるさいな、何言ってんだよ。あいつ俺が起こしに行かないと寝坊しちゃうだろ」
「ほうほう、そういう設定なのね」
「ああ、もう知らん!行ってきます」
行ってらっしゃぁい、その適当な声を背中で跳ね返し、架は外に出る。
「さてと、急がなきゃな」
左手につけた腕時計を覗き込む。七時十五分。いつも通りなら、まあ遅れるんだが。最低でも授業が始まる前には着くはずだ。
加奈の家は家を出て学校へと続く一本道を進んで五分くらい。赤い屋根の、
「あれ?」
加奈の家であろうその家は外見も少し変わり、なにより屋根が黒かった。
「いつ建て替えたんだ?」
いつも通り架はその家のインターホンを鳴らす。応答がない。まあいつもの事だが―
「はい?」
「え?」
その家の玄関から出てきたのはエプロンを着た女の人だった。
「どちら様でしょうか?」
「え、えっと加奈さんのお母さんですか?」
とりあえず考えられるのは、加奈の一人暮らしがひどすぎてお母さんが一緒に暮らし始めたというパターン、いやこれしかない。
「加奈さん?ええと、多分、家を間違ってると思いますよ。うちには娘の花蓮しかいないので」
「あ、はい。そうですか」
そういってその女性は扉の向こうへ消えていった。
「うん、そうだ、この隣の家だったよな。あはは、間違えた。まちがえた」
いや違う、架は気付く。
「なんで博士が家にいるんだ。博士は事故で病院に」
あれ?いやそれは夢で。
「加奈は?加奈の家はどこだ」
―さよなら―
架の中でその声が再びこだまする。
「夢じゃない。魔法も、ユメも、あの男も。加奈も」
いや、やっぱり夢だ。
「もう先に行ったんだな、珍しいこともあるもんだ。早く行こう」
時間はまだ七時半、余裕だ。その軽い足を少しだけ走らせ架は学校へ向かう。そういえば途中に道場もあったはずだ。
「でも、南部先生どっか行っちゃったからな」
学校の前にある道場を通り過ぎながらふと思う。
「おお!架じゃないか。おは」
「え?」
振り向くとそこには南部先生がいた。
「あれ?」
「なんだどうした?そんな不思議そうな顔して」
ああ、やっぱり夢だったのか。
「いや、別に」
架は少し引きつった顔で答える。
「そうか?とりあえず学校終わったら道場来い。慰めてやる」
「慰める?」
「いいから分かったら早く行け。遅れるぞ」
「じゃあ最初から声かけないでくださいよ」
架は道場を後にし、学校へと走る。
「慰めるって、どういう意味だよ」
架はあっという間に校門をすりぬけ昇降口へとたどり着く。まだ八時。余裕で間に合った。
「いつもこうだといいんだけどな」
加奈と登校するときは九割くらい遅れる。こんな時間に来るのは珍しい。
「お、今日は早いな」
下駄箱で靴を履き替えていると後ろから声をかけられた。
「お、おはよう健」
あれ?
「なんだ?寝ぼけてんのか。まあこんな早いんだからそうか。いっつも寝坊してくるもんな」
「いや、それは違う。俺が寝坊してるんじゃなくて、加奈が寝坊してるんだ」
「加奈?」
「え?」
また空気がよどむ。
「なんだお前。彼女出来ないからって空想上の彼女はさすがにやばすぎないか?」
「はあ?お前まで何で博士と同じこと言ってんだよ。さすがに怒るぞ」
「何で起こるんだよ?」
「えぇ」
健には本当に純粋な疑問の表情しか見えなかった。
「加奈は?」
夢じゃないのか。全部。健も、南部先生も。
下駄箱の前で立ち尽くす健を置いて架は教室へと走り出す。
「加奈は?加奈は、いやきっといる。教室の机で寝てるんだ。きっとそうだ」
廊下を走り抜け、その突き当りにある教室のドアを引く。
「加奈!」
教室で座っていたみんなが扉のほうを向く。
「おお、架!はやいな」
「なんだ?今日は早起きか」
「加奈は?まだ来てない?」
クラスメイト達は互いに顔を見合わせる。
「どうした架?ついに妄想彼女か?」
まただ。みんな健と同じ顔をした。
「何で、何で。何でみんな同じこと言うんだよ!」
教室の扉をその怒りか何か分からないものをぶつけるように閉め、来た道をまっすぐまた戻る。
「おい、架!」
途中で健とすれ違う。もう何が何だか分からない。やはりあれは夢ではないのだろうか。
―さよなら―
またこだまする。どれくらい走ったのか分からない。いつの間にか架は逃げるように、先生の道場にたどり着いていた。南部先生はそれを予想していたかのように道場の前で立っていた。
「やっぱりな。早かったな。まあ入れ」
なぜか先生だけは、顔が違った。
「まあ座れよ」
先生が座ってうつむいている架にお茶を差し出す。
「あの、先生」
「うーんそうだな」
「え?」
「死んだはずの人が生き返ってたり、植物状態だった人がピンピンしてたり、それに加え、大事な大事な幼馴染がいないことになってたり。そんな感じか?」
「なんで、分かるんです」
「やはりお前も特異点だったか。まあそんな気はしてたが」
先生はおもむろに架の隣に座る。
「この世界はたくさんの線でできている。その一つ一つが重なり合ってこの世界を作っている」
「あの先生、何の話です?」
「少しファンタジーっぽい現実の話だ」
先生の顔つきが突然真面目な顔に変わる。
「でだ。人間というのはその線の中にそれぞれ違う自分を持っている。その意識は普通つながらない。無意識のうちに夢などの事象を介して少し伝わるくらいだ。だが、ごくまれにその線のすべての意識を同時に持っている人間がいることがある。それが特異点だ。俺もそうだし、お前もそうだ。」
「つまりどういうことです?」
「つまりだ。あの時、線が変わった。お前の意識のあった世界から違う世界へと移った。他の人は線によって違うから記憶を持ってはいない。ただお前は、俺は同じ意識を持っているから記憶を持ったまま周りの環境が変わるという現象が起こる」
先生は淡々と話す。それがまるで本当のことのように。いや、
「いいか架、この世界に加奈はいない。まずは現実を受け止めろ。話はそれからだ」
「は、はい」
やはり現実なのだろう。あの記憶全て。加奈が言ったさよならの意味を架は今理解した。
「加奈は。加奈にはもう会えないんですか?」
「まあ、そうだな」
「じゃあ意味ないですね。僕はもう」
「ん?なんだって」
「加奈がいない世界で僕が生きていてもあまり意味はないです。加奈はずっと一緒にいてくれた。ずっと」
「そうか。なら迷うことはないな」
「え?」
先生は立ち上がり僕を見下ろす。
「加奈ちゃんを助ける。それができるのは君だけだ。架!」
「た、助けられるんですか!」
「まあまあ、そうがっつくな」
突然立ち上がった架に先生は少し後ずさる。
「簡単な話だ。もう一度線を変えればいい。加奈ちゃんが生きている世界に」
「それにはどうすれば!」
「ああもうほんとに好きなんだな。今から説明するから」
「はい、お願いします!」
先生は道場の奥の部屋へ消えていく。少しするとその右手に小さな紙をもって帰ってきた。
「これを見てくれ」
先生は持ってきた髪を床に広げる。
「なんですかこれ?」
その紙には細かい縦線が無数に書かれていた。そして一本だけが赤く染まっていた。
「これは今私の意識がどの線の上にあるのかを記録したものだ。この赤いのが今いる線。恐らく僕たちの意識はこの世界線から移動した」
そういって先生は赤い線の二つ隣にある線を指さした。
「どうしてわかるんですか?」
「この線だけなぜか途中で途切れている。恐らく世界そのものが終わっているのだろう。魔法のせいで」
「魔法って、先生何でも知ってますね」
「君が知っていることと同じくらいは知ってると思うよ」
「何者なんですか。あなたは」
こほん、と先生はわざとらしく咳払いをする。
「つづけるよ。つまりこの線に戻っても意味がない。だから、それ以外で加奈ちゃんが生きている線にたどり着かなくちゃいけない。そこで君の出番だ」
先生は唐突に架を指さす。
「君が加奈ちゃんを探し出し救うんだ。加奈ちゃんが幸せに暮らせる世界に連れていけ。どうやら加奈ちゃんは時を彼女自身の能力で時を超えたらしい。その余韻を使って君もあとを追うんだ。そして見つけろ」
「見つけろって、先生も一緒に来てくださいよ」
「それは出来ない。私にはほかにやらなくちゃいけないことがいけない」
「とりあえずだ、急げ。余韻はそのうち消えてしまう」
「いや、そんなこと言われても、具体的にどうすればいいんですか」
ふっふっふ、と不敵な笑みを浮かべながら先生は立ち上がる。
「君の記憶の中に残っている加奈ちゃんの記憶を探るんだ。そして念じろ」
「はぁ?そんなことでできるわけないじゃないですか」
「ああもう、つべこべ言わずに早くやれ。全てを捨てる覚悟はできてるんだろうな。そうじゃなきゃ成功しない」
すべてを捨てる覚悟。先生はそう言った。
「できてます。加奈がいなきゃ始まらないんです」
「そうか、じゃあやれ」
「はい!」
今はほかに何もない。言われた通りにやるしかない。架は自分の中にある記憶を探る。
「加奈」
ずっと一緒だった、傍にいてくれた、彼女を心に灯す。
―さよなら―
またこだまする。そして架はまた掴んだ。あの時と同じ何かを。
「はっ」
気付くと周りの景色は白く濁り何も見えない。
「こ、これは」
「成功だな、架」
突然、目の前に先生が現れる。
「これで追いつけるんですか」
「それは分からん、加奈と同じところに行けるだけだ」
架は目の前に眩く広がる白に目を向ける。
「言っておくがもうここには戻ってこれない。加奈以外すべて存在するこの世界にはな」
「分かってます」
「お前の目は本当に迷いがないな。会った時からそうだ」
「初めて会った時の事なんて忘れました」
白い光が強くなり、目の前がかすむ。先生も次第に離れていく。
「行ってこい。お前の好きなものを取り戻せ、架」
「先生!」
「もうお前の先生ではない」
「え?」
「わたしは線の観測者だ」
「何を言ってるんですか、こんな時に」
「はっは、ほんとなんだけどなぁ」
白い光は一層眩くなり、もう何も見えない。
「じゃあな架、また会おう」
「はい!」
おそらく生まれて一番大きなその声にこたえる者はなかった。架は目の前に広がる白に向かう。すべてを取り戻しに。架は手を伸ばす。さよならと言った君を、救うために、そのパラドクスから。




