5-7
「いよいよか」
ピラカの部屋に、彼はいた。金髪の少年は、ついに明日に迫った立太子式のリハーサルも済ませてくつろいでいた。が、その表情には緊張のかけらもない。
そんな主人の様子を見て顔をしかめて見せるのは、部屋の主である黒髪の青年だ。
「ずいぶん楽しそうですね。そんなに悠々としていていいのですか?」
「悪いはずがなかろう? すべての準備は整っている。あとは明日、定刻どおりに眼を覚ませばいい。それで全てはうまくいく」
「……そうなればよろしいのですが」
「そうしてみせるさ。お前も出席するのだろう?」
「ええ、一応オルディアの代表代理として」
「興奮して眠れそうにないよ」
「眠らねばなりませんよ。いつぞやのようにブランデーでも差し上げましょうか?」
「睡眠薬入りは要らないよ。二度も同じ手に引っかかるものか」
「では、普通のワインでも」
「何も入っていないならな」
疑わしげに見つめる。ピラカは微笑んだ。
「ええ。信用できなければご自分で女官にでもワインを持ってこさせてください」
「そうしよう」
そういい、外にいた女官に用を言いつける。しばらくしてワゴンに注文の品がそろえられてきた。
手ずからワインの封を破り、栓を抜く。それを見ていたピラカは、不意に既視感に襲われた。二十数年前。女官の運んできた酒。銀のワゴン。自分で破った封。
力が抜けて彼は椅子に座り込んだ。これほど奇妙な符号はない。
「どうした? 顔が真っ青だぞ」
気がついてファーデスは顔を覗き込んだ。ピラカは己の顔に手を当てた。唇すらも冷たくなっていた。
「寒いのか?」
「いえ、気分がすぐれないだけです」
「医師を呼ぶか?」
「要りません。大丈夫です」
だが、背筋に悪寒が走り出す。ピラカは旗から見ていても分かるほど体を震わせていた。
ファーデスは戸棚にあったブランデーをグラスに注ぎ、手に押し付けた。
「飲め。お前、おかしいぞ」
震える手で唇に押し当てる。焼けるような感触。うまく流し込めず、喉を伝ってこぼれ落ちる。それと同時に、胃袋に焼け付くような痛み。
ひきつけを起こしたようにピラカは震えていた。何が怖いわけでもない。寒いわけでもない。かつての悲劇を目の前で繰り返されるような気がして、底なしの淵に突き落とされたようなショックを受けたのだ。
やっと落ち着いてくると、彼はゆっくりと呼吸をし、体の緊張をほぐしていった。
「大丈夫なのか?」
「ええ……」
「本当に?」
「大丈夫、です」
寒気が去っていく。だが、骨の髄に染みこんだこの冷たさはしばらく抜けないだろう。
「何があったんだ」
「……まるで二十数年前の再現に……見えたのですよ」
うまく舌が回らない。顔の筋肉がこわばっている。
ファーデスはワゴンを振り返った。確かにそっくりに見える。だが、それがなぜピラカにこれほどのショックを与えたのか、分からなかった。
「もう休め。絶対おかしいぞ」
「……いいえ、大丈夫です。このくらのことで」
「だが」
「いいのです。それより明日のほうが大事ですから」
「あした?」
「……そう、明日。皆が浮かれているうちに、事を起こしたほうがいい」
「そんなことをしたら、逃げられないぞ」
「逃げなくてもいい。……あなたは手を汚してはいけない。今までもそうだったように、これからも」
ピラカはようやく動かせた顔の筋肉でほのかに笑った。
「王たるものは、ご自身の手を汚してはならないものです。たとえ自分がそうせよと命じたにしても、自分は清らかでなければならない」
「父はこの手で」
「あなたには無理です。……お分かりでしょう? ……とにかく明日、皆が寝静まってから事を起こしましょう。あなたは部屋に閉じこもっていてください」
「しかし」
つかまるぞ、といいかける彼を制する。
「夢を果たしたいのです。私も。あなたはあの人の位と財産を奪う。私はあの人の命をいただく。それではいけませんか?」
その顔はどこか不気味であった。
「おまえ……」
「疲れました。休ませていただけますか?」
「ああ。だが……」
「お忘れのなきように。部屋を出てはなりませんよ」
それだけいうと、ピラカはファーデスを追い出した。銀のワゴンをじっと見つめる。
何と奇妙な符号だろう。それはまるで地獄の底にいる父からの暗号のように見えた。




