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出会い

 ゴールドエリアの道は綺麗だ。

 キャリーケースのタイヤが嵌る穴がないなんて。これがブロンズエリアなら、穴や小石にタイヤが跳ね上がって、まともに引いて歩くのは難しい。

 ゴミが落ちていない。タバコの吸い殻も。落書きされた壁がない。優美なフォルムの街灯はみんなピカピカで割れているものなんてない。手入れのされた街路樹の根本は清潔で悪臭も漂っていない。

「うわー、もの凄く快適だ!」

 さっきから、何回足を止め、ゴールドとブロンズの差に驚いただろう。

 目指すお屋敷はゴールドエリアの中心部から外れた、高級住宅街の一角にあった。

 背よりも高い塀をぐるりと回り込んで、辿り着いた黒い鉄製の門はかなり威圧的で、全く歓迎されていない気がして、今更ながら不安になる。金色の輪を咥えるライオンと目が合った。じろりと睨まれて、後退りそうになった足にぐっと力を入れた。意を決して輪を握り三回叩く。が、いくら待っても応えはなかった。迷いに迷って、脇にある小さな扉を押すと、意外にもあっさりと開いた。セキュリティーが故障でもしているのか。

「不用心だけど。助かった、のかな?」

 お邪魔しまーす。と自らの存在を知らせながら、恐る恐る扉を潜る。

「わあ…」

 思わず声が漏れた。

 写真で見た通りの光景が広がっていた。門から玄関までは綺麗な白い石が敷き詰められ、隙間からは可愛いピンクの小花を咲かせたタイムが顔を出す。玄関に向かって歩くと、踏まれたタイムの良い香りが漂う仕掛けだ。奥には塀を覆い被すように茂ったつるバラが、山吹色の小さな蕾をびっしりついた枝を重そうに風に揺らしていた。

「すみません。どなたかいらっしゃいませんか?」

 声を掛けながら一歩二歩進むと、さっぱりとした緑の香りが足元から漂う。そのままエントランスまで進むつもりが、パタリと足が止まった。

 大きなマグノリアの木が、機嫌よく青空に向かって枝を広げていた。これから迎える盛りに向かって、柔らかな産毛に包まれた蕾がピンと上を向く。写真に写っていた樹だ。

 懐かしさに、胸の奥をキュッと掴まれた。吸い寄せられるように近づくと、そろそろと白く滑らかな幹に指を伸ばした。

「どなたでしょうか」

 空気を震わせピシッと走った誰何に驚き、伸ばした手は熱いものに触れたかのように引っ込んだ。

 太い幹の後ろから、男が姿を現した。庭仕事をしていたのか、手には大きなシャベルを持ち、作業には全く適していない一目で上等だと分かる服は、所々土で汚れていた。

「あ、あの、すみません。何回か声を掛けたんですが、すみません、全然返事がなくって勝手に入って来ちゃって。すみません。ごめんなさい」

 まさかこんな風に住人に出くわすとは思っていなく、パニックを起こし掛けた僕は、謝罪の言葉を連発してしまい、またパニックになる。ペコペコと頭を下げ恐る恐る顔をあげると、男が真っ直ぐにこちらを見ていた。が、その顔には何の表情もなく、ただただこの突然現れた来訪者を観察しているようだった。

 美しい男だった。

 歳のころは…多分三十代半ば。少し長めのプラチナブロンドの髪を撫で付け、高い鼻梁に乳白色の肌、しっかりとした顎のラインは滑らかに細く長い首へと繋がって行く。女性的かと言えば、そうではなく、細身に見えてバランス良く筋肉がついた体を、チャコールグレーのシンプルなジャケットが包んでいる。

 そして最も特徴的な翡翠のようにけぶる翠色の瞳が二つ、じっとこちらを見ている。あまりの綺麗さに、一瞬言い訳も忘れて、彼の瞳をじっと見つめた。

「ここはマキシミリアン・フォン・シュタイン様の屋敷ですが、何かお間違えでも?ミスター…」

 少し薄めの形の良い唇が再び動き、僕は現実へと引き戻される。

「大瀬です!大瀬嶺です。今日からここでお世話になります!レインフォールさんに紹介されて…あ、あの、よろしくお願いします。これ、預かってきた書類です」

 ばっと両手で書類を突き出し、深々とお辞儀をする。混乱は頭の中をぐちゃぐちゃにかき混ぜ、まともな挨拶一つもできない自分に、顔が熱くなるのを感じた。

 ああ、と男は合点が行ったように小さく頷いた。と言ってもわずかに顎を引いた程度だったが。あまりにも人間離れした美しい顔のせいか、不審な表情も納得した表情も、さほど変わらず表情に乏しく見える。

「失礼しました。ようこそ、オオセ様。わたしはこの屋敷の執事のクリストフと申します」

 右手を胸に当て、視線を斜め下に落とす程度の礼だったが、白い水鳥の羽ばたきのように優美だった。

(話が違ーう!)

 これが僕の率直な感想だった。執事と聞いて勝手に白髪のおじいちゃん紳士を想像していた。それなのに今僕の目の前にいる人は、男の僕ですら、ぽーと頭に血が昇ってしまうほどの美貌の持ち主だ。そして美貌も過ぎれば、凄まじい圧力になると知った。彼の一挙手一動に圧倒されて、自分がひどくつまらない生き物みたいに感じてしまう。

「オオセ様?」「ひゃいっ!」

 契約の書類に目を通りているクリストフさんの長い指先や伏せたまつ毛はやっぱり金色で、そんな事に気を取られていると、いきなり名前を呼ばれ、無様に声がひっくり返ってしまった。恥ずかしくて耳が熱くて焼き切れそうだ。

「失礼ですが、緊張されていますか?」

 僕は首がもげる程、激しく首を縦に振った。

「わたしが取って食べるとでも?」

 冗談を言っているのだろうが、やはり表情はほとんど変わらない。

「いいえ、そんな事は全然!」

 そうですか、と彼は呟くと、少し考えるように視線を落とした。長いまつ毛が頬に影を落とす。

「もしかして、ご存知ないのでしょうか」

 何のことでしょうか、と僕が尋ねる前に、綺麗な唇が再び動いた。

「わたしはアンドロイドです」

「‼︎」衝撃のあまり、目を見開き口がぱくぱくと溺れた魚みたいな動きをしてしまった。

「アンドロイドって…」

 そう言い掛けて、自分の呟きが失礼だったと「すみません」と慌てて謝った。

「我が主人が代表を務める『ANDROID社』はご存知でしょうか」

 再び激しく首を縦に振った。もう髪はボサボサだ。慌てて両手で撫でつけた。

「は、はい!アンドロイドを制作している、世界で一番有名な会社です!」

「わたしは主人によって生み出された『ANDROID社』の完成品第一号なのです」

 小さな沈黙がコトリと二人の間に落ちた。僕の聞き間違えか?

「…え?あ?そんな。まさか」

 なんて間抜けな返答だろうと、頭では分かっていても、今の僕にはまともな応答などできなかった。それほどまでに、目の前の男は完璧だった。いや、完璧過ぎて…その人間離れした外見から考えれば、確かに『人間ではない』のかもしれない。

「さらに言うのであれば、わたしは『試験期間中』とも言えます」

「試験期間?」

「はい。今までもある程度のロボットが、人間と一緒に労働や生活のサポートを行って来ましたが、あくまでも機械という外見の物ばかりです。ヒューマロイドにしても人間と同じように、頭・胴体・四肢の区別があるものが多いですが、それでも見るからに質感は機械です。さらに活動に至っては人間によるプログラミングに基づくものが主です。『ANDROID社』が目指すのは、アンドロイドの自立。完全なる人間とアンドロイドの調和です」

「人間との調和…」

「今までのAIも、人間の学習能力を上回るスピードと内容量という結果を出していますが、あくまでそれは科学の域を出ない。人間のこの世に誕生してから成長していく上で積み重なって来た歴史や知識、知性は、AIのソレとは質が違います。『ANDROID社』では、その部分の自然な(・・・)成長を重視しています。わたしはそこを期待されている『個体』なのです。もちろん、わたしの存在は市場に出回るほどに、まだ完成はされていません。ですから主人の元で、人間と変わらない生活を送る試験をしています」

 ここまでの説明を彼は一気に喋り切ったが、翠色の瞳が揺れることはなく、口調も淡々と事実の報告、だけだった。己のことのはずなのに、全くの他人事。それこそが、彼が感情に乏しい機械という証なのか。

「人の中にアンドロイドが紛れていても分からない未来が来るということですか」

「そうです、と言えれば良いのでしょうが、知性よりももっと難しい壁があります。それは『ココロ』です」

「…心」

 ひんやりと美しく、何の表情も浮かばない彼の口から語られる、『心』という言葉はゴツゴツした石のように固くて、僕たち二人の足元に転がり落ちて、小さな音を立てた。「現在のAIの学習では、単なる心の猿真似止まりです。この事例にならこう反応するだろう、というパターンの積み重ねに基づく反応。『ココロ』こそが、生物とわたしたちの最大の差です」

「でもあなたとの会話はとてもスムーズで、僕はなんの不自然も感じません。とてもあなたが…その、人間じゃなくてアンドロイドだなんて…」

 言ってしまってから、自分の言葉の不用意さを悔やんだ。

(謝らなきゃ!)

 言葉は簡単に人を傷つける。こちらの意図など御構い無しに、それこそ意思を持っているかのように、傍若無人に振る舞う。が、幸か不幸か、目の前の男は僕の焦りには全く気がついていない。

「ありがとうございます。それは『ANDROID社』が優秀という事で、我々にとって有益なご意見です。では、説明を続けさせて頂きます」

「あ、はい。お願いします…」

 心がないと言うのなら、相手の心も気にならないのか。それより必要な説明を済ませる事が、今の彼の最優先事項なんだとわかった。

「万が一、わたしが暴走した時の緊急用のストッパーも体内に配置されています。未完成と聞くと、その部分がご心配なのでは?大丈夫です。異常を検知した際は、わたしは強制的にシャットダウンされ解体されます」

「シャットダウン…解体…」

 さっきから容赦なく押し寄せるショッキングな単語に、心が追いつかずにクラクラしてしまう。

(どうしてこの人はこんなに静かな顔で、自分の消滅の話をするんだろう)

 その答えは『アンドロイド』だから。

「少し説明が長くなってしまいましたね。お疲れのところ申し訳ありませんでした。しかしわたしについての説明は必要不可欠、と判断しました。では、お茶を用意いたしますので、お屋敷の中へどうぞ。後ほどご案内も致します」

 軽く胸に手を当てそう言うと、さっと僕の手からキャリーバックを受け取り、エントランスに向かって歩き出した。

 背筋がピンと伸び、頭が揺れることも高さが変わることもない、流れるように滑るように歩く後ろ姿に見惚れてしまう。

(この人を描いてみたい)

 突然、強くそう思った。

 腹の底から突き上げる強烈な衝動に、自分自身が戸惑ってしまった。何かを強く願うことは意図的に避けている。失った時、出来なかった時、の落胆が怖いからだ。

 動き出そうとしない僕に気がついたクリストフさんが、こちらを振り返る。

「何かお加減でも?」

「大丈夫です。すみません」

 一歩足を踏み出す。足の裏に柔らかな感触とタイムの爽やかな青さが香る。

 もし僕が絵のモデルをお願いしたら、はたして彼は、笑顔を見せてくれるのだろうか。

 

 初めに通されたのは、壁一面がガラス張りの温室のようなサンルームだった。僕では名前も分からない派手な赤と黄色の花が咲き、綺麗な黄緑色に白い斑入りの葉が天井から吊るされている。

「あ、旅人の木」

 サンルームの天井は二階分の高さがあり、一際大きく育った旅人の木が大きな緑の葉を艶々と光らせている。幼い子供なら毛布になりそうな大きさだ。そのイメージ通り、昔の旅人たちは、この大きな葉の作る木陰で休憩をしたと言われている。

 芳亜の肩飾りにも刺繍されている旅人の木は、休息・癒しのイメージから、癒しの力を持つ聖職者たちのシンボルとされている。

「そちらでお待ちください。ただいまお茶の用意を致します」

 ちょっとしたジャングル並みに緑が溢れかえったサンルームの中央には、僕が寝そべってもまだ余りある大型の籐製カウチが置かれている。サンルームだけで、僕の住んでいたアパートの部屋の三倍以上ありそうだ。

「綺麗な花やグリーンがいっぱいで素敵な部屋ですね」

「シュテイン様の趣味です。主人はこちらでお茶の時間を過ごす事が多かったのですが、オオセ様も今後のお茶の時間は、こちらでお過ごしされますか?」

「もちろんです。よろしくお願いします」

「この時間は主人のルーティーンであり、わたしのルーティーンでもあります。ルーティーンを変えずに済み、感謝いたします」

 胸に手を当て再び優美なお辞儀をされ、慌てて僕もお辞儀を返す。中途半端に立ち上がって、ご老人みたいなギクシャクと腰を折るお辞儀をしてしまい、自分の格好悪さにまた赤面する。

 やはり僕の様子など全く気にしていないクリストフさんは、僕のお辞儀の途中でさっさと次の仕事に取り掛かっていた。ホッとしたような恨めしいような、どっちつかずの気分でその背中を見る。

 右手に大ぶりの陶器製のポット、左手に一回り小さな銀のポットを持ち上げると、ワゴンの上に準備されたカップに向かい見事な二本の滝を注ぎ落とした。大ぶりな陶器のポットはそれなりの重さがあるだろうが、表情一つ変えずその動きは滑らかだった。

「お待たせいたしました」

 目の前に置かれたカップは、花とハチドリが緻密なタッチで描かれ、金彩が厚く施された豪華なものだった。

(わあー綺麗だな。…でも、割ったらどうしよう…)

 この一客で、多分僕のペンキ屋のアルバイト代一ヶ月分では到底足りないだろう。思わず手を伸ばすのを躊躇ってしまう。

「どうされました?」

 カップと同じ柄の三段のトレイには、数種類の焼き菓子と果物、指先で摘めるサンドイッチが綺麗に並べられていた。全部美味しそうで、キラキラ宝石みたいに輝いている。

 もちろん、こんなシュチュエーションは生まれて初めてで、見ているだけで感動とそれを大きく上回る緊張で、もう既にお腹いっぱいの状態だ。

「どうぞお召し上がりください」

「うう…」

「もしかして、お加減でも?」

 さっきから何度聞いたか分からない『お加減でも?』彼の知識としては、人間の動きが鈍くなるイコール具合が悪い、らしい。

「いえ、体調は大丈夫ですが…」

「ですが?」

「正直、だいぶ緊張しています」

 緊張…と彼はその単語を口の中で噛み砕くように呟き、分からないとばかりにわずかに首を傾げた。

「僕はブロンズの出身です。こんな立派な食器は割ったらどうしようと思うし、正式なお茶の作法なんて知りません。何か変なことをして、あなたを呆れさせるんじゃないかと…とても心配です」

「執事のわたしが、あなたをジャッジするようなことは学習(プログラミング)されていません。どうぞ、ご安心してください」

 そうなのだ。どこまでも役目に忠実な目の前の美しい男は、多分この瞬間も『学習中』なのだ。

「執事って…あなたはシュタインさんの執事であって、僕のそれではないです。だからこんなに豪華な食器もおやつも必要ないし、このお屋敷に慣れるまでは、色々とお世話してもらうと思いますが、僕は自分のことは自分でできます」

「仰っていることは分かりますが、そうなりますと、わたしの仕事がなくなってしまいます。わたしは『試験期間中』で、オオセ様は、多忙で不在がちな主人に変わって、わたしを『学習』させる役割だと認識しています」

 うーん、と今度は僕が考え込む番だった。

 確かにそうなんだけど、でも、この下にも置かないお尻がムズムズとするような扱いは違う、とはっきり分かっている。

 橋の上の紳士やレインフォードさん、顔も知らないシュタインさん。ゴールドの住人の彼らは、この状況が当たり前なのかもしれないけど、僕は違う。僕には僕の世界がある。

「えっと、提案ですが…」

「はい。承ります」

 コクン、と喉が鳴った。

「僕と友達になってください」

「友達、ですか?」

 僕を凝視する彼の美しい顔には「そんな単語は知らない」という言葉がありありと浮かんでいる。

「それはどういう行動を取れば良いのでしょうか」

「あなたもそこに座って、お茶を一緒に飲んでください。おしゃべりを楽しみましょう。食事も一緒に。僕がここに住めば掃除も洗濯も必要ですよね。一緒にやります。教えてください」

「それではわたしの仕事が。オオセ様はわたしの試験期間…」

 さっきから繰り返される言葉は、全く僕が望んでいないものだ。今ここではっきりとさせようと、僕は一つ咳払いをして改めてクリストフさんに向き合った。

「試験期間って、正常にあなたが活動できているか、でしょう。だったら、僕が一緒に生活してそれをチェックできれば、何も問題ないってことですよね。僕はシュタインさんとは違う方法で、あなたがちゃんと動いているか見ています。それなら、友達って立場が一番良いです」

 友達…と消えてしまいそうなクリストフさんの呟きが聞こえた。翠色の瞳が真っ直ぐに前を見つめたまま、しばらく動きが止まった。

「え、え、どうしたの?僕が変なことを言ったから、フリーズしちゃった?」

 慌てて伸ばした指先が、もう少しでグレーのスーツの裾に触る直前、再び瞳がはたりと僕を見た。思わず心臓が一つ大きく跳ねた。

「友達、というものをわたしの中で学習・吟味していました。そうですね。オオセ様が提案された内容でも、確かに試験は継続できますね。良いでしょう。友達になりましょう」

 良かった。僕は嬉しくて、右手をクリストフさんに向かって勢いよく差し出した。しかし当のクリストフさんは、意味がわからないとばかりに、首を傾げている。

「握手、だよ」

 そっと彼の手を取って、柔らかく握った。

「人はこうして握手で、挨拶したり親しさを示したりするんだよ。ハグもあるけれど、それは僕たちがもっと仲良くなってからだね」

 クリストフさんは、軽く揺すられた二人の手を見ている。

「あの、オオセ様…」

「それから、僕の事は嶺って呼んでください。友達は様付なんかしないから。それから敬語もなし」

「友達は敬語を使わないと?」

「そう」僕は満足げに頷いた。

「検討します」「いや、検討じゃダメでしょう。ちゃんと嶺って呼んでくだ…、よ、呼んでね」

 僕自身が慣れてない口調にもじもじしてしまう。

レイ(・・)、ですね」

 あ、やっぱりそっちのアクセントになるのね、と思ったが、訂正はしない。どちらのアクセントにしろ、名前で呼んでもらえれば、それで良い。

 レイ、と今度はゆっくりと咀嚼するように、口の中で呟く。なぜか自分自身を味わられているようで、ムズムズとする。

「それでしたら…いや、それなら、わたしのことは『クリス』とお呼びく…いや、呼んで欲しい」

 クリス。クリストフの愛称だ。「もちろん!」と僕は大きく頷く。嬉しくて拍手をしたい気分だ。

「じゃあ、クリスもここに座って。一緒にお茶を。あ、明日からはこんなすごいカップじゃなくて一番安いのでお願いね。オヤツも食べ切れる量だけで用意しよう」

 僕に促され、クリスはぎこちなく向かい合って座った。緊張した面持ちで、背中に定規が張り付いたみたいにピンと微動だしない。その姿に、今更ながら重要なことに思い当たった。

「…ごめん。お茶も食事も一緒ってお願いしたけど、もしかして食べる機能は付いていないとか」

「いや、大丈夫だ。実際のエネルギー源は別にあるから、本来は食べ物の摂取は必要はないのだが、主人は重要と考えたようだ。今後わたしの試験が上手くいって量産化された時は、レイのように共に食事を望むパターンもあるだろうから」

 ぎこちない笑顔を浮かべて、トレイからクッキーを人差し指と親指でそっと摘み、一度顔の前でじっと見つめている。綺麗な翠色の瞳が寄り目になっている。ちょっと可笑しくて、笑いを堪えた僕の口元がフニャリとしてしまう。

 えい、とばかりに、クリスがクッキーを口に放り込んだ。当然、咀嚼もなんだかぎこちない。

「…全くリラックスしてないね。そういう僕もだよね。お互いに徐々に慣れていこうね」

 自分だって緊張していたのに、クリスの動きで大分和らいだ。よし、と慎重に手に取ったカップを口をつける。

「うわー、コレ、すっごく美味しいよ。本当にミルクと紅茶だけなんだよね。僕が入れるのと、どう違うんだろう」

「お茶は主人の好物なので、多分特別にプログラミングされていると思う」

 丁寧に淹れた紅茶は香り高く、砂糖も入れていないのに上質なミルクはほんのり甘い。

(こんなに美味しいミルクをホームのみんなにも飲ませてあげたいな)

 ちょっとしんみりして、手の中のカップに視線を落とした。

「どうかしたのか。体調でも…」

「大丈夫。体調は悪くないよ。黙ったり、ちょっと動きが遅くなったりするのは、他に考えている事があるからだよ」

 そういうものなのか?とクリスは半信半疑の表情を浮かべている。

「それよりもシュタインさんのことを教えてよ」

「主人の?なぜ?」

 一瞬、クリスの顔に疑いのような影が走ったのは、気のせいか。

「これからお世話になろうとする人なのに、僕はシュタインさんのことを何も知らない」

「インターネットやメディアを調べたりは?噂話のいくつかは知れるだろう」

「僕はそういうのは疎くて。それに、顔も知らない誰が書いたか分からない程度の情報で、シュタインさんを知るのは失礼だと思う」

「ほう」と、クリスは形の良い眉毛を軽く上げた。

「肝心な心掛けだね。お茶のおかわりは?」

 ありがとう、とカップを慎重に手渡す。

「傲慢な方、だよ」

 思いもよらない言葉だった。

 クリスの美しい切長の目がスッと細めらる。僕は内心戸惑いながらも、次の言葉を待ったが、クリスはそれ以上は何も言わず、優雅な手つきでおかわりのカップを差し出した。

「さあ、もっとケーキを食べなさい。君はちょっと痩せすぎで心配になる」

 答えたのだから、この会話は終わりだとばかりに、彼は果物やケーキを乗せた皿を手渡してくる。

「太り過ぎは問題外だが、痩せ過ぎも駄目だ。人間には適正な体重というのがあるだろう。今まで食事はどうしていたんだい?」

「食べてはいたけど、一番後回しだったかな。お金が少しでも余ったら、絵の具を買いたかったしね」

 僕の答えに、クリスの眉間に軽く皺が寄る。

「今日からは、わたしの仕事の一つが、レイを太らせることだ。夕食は期待して欲しい」

「ええ、駄目だよ。絶対に食べられるだけってさっき言ったよね」

 このお茶の準備を見ただけで、この屋敷の食卓の豪華さが簡単に想像できる。僕はそんな食事は必要じゃない。温かくお腹が満たされる程度で良い。…いや本当は見るだけならちょっと見てみたいのも本音だけど。

「食事もここで食べるの?」

「いいや。食事は食堂に用意をする。ここはお茶や読書を楽しむために作られているからね。お茶が終わったら、君の部屋と屋敷の中を案内しよう」

 真っ直ぐな姿勢でカウチに座るクリスの姿は、リラックスという言葉を知らないのかも。つられて僕も背筋を伸ばして座り直した。

「シュテインさんはどうしてお屋敷を誰かに貸そうとしたの?家賃収入を期待してる訳じゃないだろうし、クリスの件だって、他の使用人の人たちが観察すれば良いと思うけど」

「現在、使用人はわたしと通いの料理番の二人しかいない。他の使用人たちは、主人の長期不在のために、他の屋敷へと移された」

「え、そうなの?他にもこんなに素敵なお屋敷があるの?」

 流石は街でも指折りの大富豪。

「郊外のものと別荘で三軒ほど。他は数ヶ月前からレイと同じように、選ばれた人たちを迎え入れている。そちらはここよりもだいぶ広いので、家族が暮らしている」

「へえぇ。そうなんだ。ちょっとホッとした。僕ばっかりがこんなに幸運で良いのか心配になってたけど、他にもいるのなら良いのか」

「ただし、この屋敷は主人が一番大切にしているものだ。彼一人用なので他に比べればコンパクトで簡素だが、実際住んでいるのはここだけで、一番思い入れが強いとも言える」

「なんだよー結局緊張しちゃうじゃん。それに、ここ、全然一人用じゃないから。全くコンパクトでもないし簡素でもないよ。僕の住んでいたアパートは、このサンルームの三分の一ぐらいの狭さだったよ。クリスが見たら、きっとびっくりしちゃうね。でもシュタインさんは、どうしてこんな立派なお屋敷を誰とも知らない相手に貸そうと思ったのかな」

「何か思うところがあったのかもしれない。主人は『無駄な行いをしたい』と言っていた。芸術という、現実的ではないものを支援しようと。あの方は本心は誰にも語らないので、それ以上のことは分からない」

「…無駄って、ひどい言い方だね」

「気に障ったら、申し訳ない。主人は傲慢な人だから」

 クリスは再びその言葉を口にした。多分、クリスはシュテインさんが口にした言葉をそのままインプットしているだけなんだろう。

「別にクリスが言ったんじゃないし。実際、僕はものすごく助けられたし、何の文句もないよ。シュタインさんの言う無駄な行いは、人助けとも言えるね」

「そうなのだろうか」

「この植物たちのお世話だって、これだけの量があれば相当な手間だよね。この無駄は気にならなかったのかな」

「どうかな。アンドロイドという命がないものを生み出す反動で、生命力の中に身を置くのが重要だとしていた。そうしないと、中立を保てないと」

「よく意味がわからないけど、もしかしたらこうして困っていた僕を助けてくれたのも、中立を保つためなのかな」

 それには答えず、クリスは手を伸ばし旅人の木の艶やかな葉を撫でた。手袋をはめた白く長い指が緑に生えて、なぜかどきりとした。

「世話に関して言うのなら、実際に行うのはわたしたち使用人だから、そこは加味する必要はない」

 クリスが彼の主人に対して、時々見せる冷めた視線をどう捉えていいのか分からず、思わず目を伏せた。

 手を伸ばしたカップのお茶は冷え切っていて、ミルクがもったりと口の中に纏わりついた。

  


【続く】

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